近世編第2節/成長する西摂地域2/富農の誕生(岩城卓二)
商品生産に目覚めた農民
近世の大坂は、全国経済の中心地となりました。航路の整備によって東北日本海側・北陸・中国・九州・四国からさまざまな物資が集まり、大名たちも蔵屋敷を設け、年貢米や特産品を販売しました。その多くは加工され、江戸や全国に向けて移出されていきました。近世は、大坂を中心に全国各地がひとつにつながった時代だと言えます。
流通網の整備によって市場が大きく広がったため、各地の農民は売ることを目的とした商業的農業に精を出すようになりました。とくに大坂の周辺農村では、商品生産がめざましく発展しました。
綿作・菜種作・米作
その代表が綿作です。近世に入ると、庶民の衣服にはそれまでの麻などに代わって、丈夫で保温性にも優れた木綿〔もめん〕が用いられるようになりました。大坂周辺農村では、17世紀から大規模な綿作が展開していたようです。現尼崎市域でも大半の村々で綿作が盛大に行なわれていたと思われますが、作付け状況など詳しいことはわかっていません。
18世紀に入ると他地方でも綿作が発展し、大坂周辺の綿作農村の間で競争が起こり、綿作をさらに発展させる村もあれば、縮小していく村もでてくるようになりました。市域では18世紀に入っても比較的綿作が盛んで、全耕地の40%以上で綿作を行なう村も少なくありませんでした。とくに武庫川東岸村々で作られる綿は極上質品として知られていました。
灯油の原料となる菜種も、大坂周辺農村で多く栽培されました。市域の村々で菜種作が広く展開するのは、18世紀中頃以降と考えられます。
西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)の農民は米も販売していました。17世紀の詳しい様相はわかりませんが、一部の農民は年貢米・自家消費米以外の余剰米を商品として販売していたようです。そして、18世紀に入ると酒造業の需要に刺激され、米は重要な商品作物となりました。
西摂の農民は地理的条件などから、綿・菜種・米のいずれかに比重をかけて生産しており、3作物を相応に生産するというのが、一般的な農業経営のスタイルでした。
18、19世紀における市域村々の綿作
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綿の栽培 河内綿の栽培過程
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変貌する農村
こうした商業的農業の展開は、次第に貧富の格差を広げることになりました。
尼崎藩領武庫郡西昆陽〔にしこや〕村を例にとって見てみることにしましょう。同村は尼崎城下の北西約7km、武庫川東岸に位置します。村高は、寛文13年(1673)以降354石余り、宝暦10年(1760)の記録では戸数49戸、人口217人でした。
18世紀以降、総耕地32町の40%程度で綿作が行なわれていたと考えられます。耕地の約80%は田方でしたので、田地でも綿作が行なわれていたことになります。菜種は50%以上で作付けされており、綿作と菜種作を行なう典型的な西摂農村でした。
このような西昆陽村では、18世紀中頃から19世紀初頭にかけて貧富の差が拡大していきました。10石以上の富・中農層が徐々に所持高を増やし、30石以上に成長する者もいるのに対して、5石以下の貧農層は没落して土地を失い、なかには絶家したり、村を去る者もいました。こうした傾向は19世紀も続き、とくに幕末には富める農民への土地集中が急速にすすみます。明治初年には持ち高10石以上の上位10戸で、村内の70%もの土地を所持していました。
貧農層は小作だけでなく、農業日雇いや普請〔ふしん〕人足に出かけたり、小商いをしながら生計を立てました。また所持高は少ないものの、在郷商人として富を蓄える者もいました。農業経営だけでなく、多様な仕事で生きる人々が暮らしているというのが、18〜19世紀の大坂周辺農村の姿でした。
富農の経営
では、商業的農業に成功した農民は、どのような経営を行なっていたのでしょうか。西昆陽村の有力家であった氏田〔うじた〕家の場合、近世初頭には所持地1町歩〔ちょうぶ〕程度の中農でした。寛延3年(1750)には1町歩余り=持高12石でしたが、次第に増やし、18世紀後半には3町歩=30石以上を所持するまでになりました。この所持地の一部は小作に出しましたが、幕末期まで2町歩以上の自作経営を続けました。
他地域には所持地の大半を小作に出し、その小作料で生活するという農民も少なくありませんでしたが、大坂周辺では生産者であることを失わず、労働力を使いながら自営する氏田家のような農業経営が多く見られました。こうした農民は「富農〔ふのう〕」と呼ばれています。
富農である氏田家の寛政4年(1792)の経営を図示しました。ただし、農業経営の収支を知ることは容易ではないので、さまざまな史料を検討した概要だと理解してください。また、寛政4年中の販売高・販売額ではなく、大半は各作物の収穫期から次の収穫期までの数値です。
さて同年、氏田家は他村所持地も合わせると、実面積で約346畝〔せ〕所持していました。このうち自作地は303畝、小作地は43畝で、約87%が自作経営されていました。
自作地では、米と綿が表作の中心作物でした。米はさまざまな品種が作付けされ、綿と合わせると作付面積は274畝にもなり、いも・小豆などはわずかでした。これ以外に、たばこ・なすびも生産されていたようです。裏作の中心は菜種と麦で、他にそら豆・えんどうが生産されていました。そして、米作地(表作)では菜種(裏作)、綿作地(表作)では麦(裏作)という表作と裏作の対応関係がありました。
米は収穫高45.1石、これをこの年の平均販売単価で計算すると、収穫額は4,004.9匁〔もんめ〕になります。ここから自給分を引いた残りが販売に回されました。同年の米の販売高は20石余り、販売額は1,834.4匁ですが、このなかには小作米も含まれていたと思われます。そのため、自作地の純粋な販売高・販売額はわからないのですが、収穫高の40%以上は商品として販売されていたのではないでしょうか。麦も米同様、収穫高の40%以上が販売されたようです。
米以外は、販売高を示しています。綿と菜種は収穫高のほとんどが販売に回されましたが、綿は一部が木綿に織られて販売されました。ただ毎年90%以上は実綿〔みわた〕・繰綿〔くりわた〕として販売され、木綿織は経営全体では副業的なものでした。最盛期には3〜4人の女奉公人が木綿を織りましたが、幕末になると衰退しています。
これらを合わせた総収入は7,348.3匁です。ここから年貢、肥料、労賃など諸経費を差し引くと、寛政4年、氏田家は自作地経営によって4,141.2匁の収益があったことになります。
年貢と労賃
多くの収益が上がるか否かは、当然、どれだけ経費を抑えることができるかどうかにかかっています。もっとも多いのが年貢と考えがちですが、実は総収入に占める年貢の割合は、表のどの年でも20%以下です。この年貢の低さが高収益をもたらす要因であったことがわかります。
富農経営には労働力が必要です。氏田家の成年の家族労働は2〜5人でした。これでは3町歩もの土地を耕作することはできないので、奉公人を雇用しなければなりません。長年季〔ねんき〕奉公人は男女で4〜7人、一年季奉公人が1〜2人程度雇用されていたと思われます。日雇い人は農繁期に雇用され、田植え、草取り、菜種もみなどに使われました。
18世紀後半、労賃は諸物価に比べると急激に上昇し、富農経営には不利でしたが、1830年代以降は上昇傾向が止まり、富農経営に有利となりました。
肥料
もっとも収益を左右する要因となったのが、肥料代です。肥料は山野から刈り取る下草が用いられるのが一般的でしたが、商業的農業では大量の肥料が購入されました。これを金肥〔きんぴ〕といい、氏田家では干鰯〔ほしか〕・油粕〔あぶらかす〕・干粕〔ほしかす〕などが用いられました。もっとも多用されたのが生鰯から油を搾って乾燥させた干鰯で、九州・四国産が使用されています。19世紀になると松前産が使用されていますが、これは蝦夷地〔えぞち〕で生産されたニシン肥のことです。大坂周辺ではこれも干鰯と呼ばれましたが、実際にはニシン肥のことで、幕末にかけて大坂市場に移入される魚肥の代表となりました。
肥料は毎年、2、3軒の肥料商から購入しており、幕末までには尼崎・西宮・伊丹・大坂・兵庫のほかに周辺農村の肥料商計40数軒と取引しています。肥料取引が、広範囲で行なわれていたことがわかります。
このように富農経営は労賃・肥料代に左右され、収益に変動は見られるものの、毎年総収入の35〜60%程度の収益を得ていました。自作地の収益は、幕末まで小作地の収益を上回っています。西摂農村は、幕末まで氏田家のような富農経営が安定して続けられる社会だったのです。
〔参考文献〕山崎隆三『地主制成立期の農業構造』(青木書店、昭和36年)。
寛政4年氏田家の経営
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