近世編第3節/人々の暮らしと文化6/婚姻(岩城卓二・中島香織)




家相応の婚姻

 一般に近世社会における結婚年齢は、男女ともに生まれた家の事情によって随分差がありました。武士であるか、町人であるか、それとも百姓であるかという身分による差。同じ百姓身分であっても親が裕福であるか、それとも苦しい生活を強いられているかという経済力の差等々。長年季〔ねんき〕奉公・短年季奉公を繰り返さざるを得ない家に生まれれば、奉公を終えてからの結婚になるためどうしても遅くなりがちです。一方、裕福な家であれば、とくに女性は10代後半で嫁ぐことも少なくありませんでした。
 当然、婚礼の儀式も家の事情によって異なります。豪華絢爛〔けんらん〕な式もあれば、それこそわずかな嫁入り道具しか用意されない場合もありました。しかし、当人同士の門出を祝うだけでなく、新たに家と家が親戚になり、家の継承・発展を祝すという意味合いが強い近世社会には、婚礼は家の格式を世間に示す大切な場でした。そのために、婚礼の儀式は、ややもすれば華美を競うことになりました。
 下の法令は、尼崎藩が領内に婚礼の重要さを言いつつ、家相応の儀式とすることを説いたものです。おそらく近世中後期のものでしょう。
 この法令は、婚礼は先祖の名跡を相続し、両親舅〔しゅうと〕姑〔しゅうとめ〕に孝行を尽くし、子孫をつくり、その家が永続するための重要な儀式だとしています。当時、どうやら婚礼荷物を多くし、結納をはじめ諸事を華美にしようとする風潮が目に余ったのでしょう。質素倹約、身分相応の生き方を重んじる藩は、続けて家相応の婚礼を取りはからうように命じています。
 一方で、この法令からは婚礼をないがしろにする風潮もあったことがわかります。「男女は婚礼をしないで馴染〔なじ〕み合い、馴れ合うような不義をしてはいけない」、あるいは「人知れず婚礼を結び夫婦となってはいけない」という文言からは、婚礼を軽視する人々が少なからずいたことが読み取れます。
 婚姻は、男女の結婚が親や両家が属する社会集団に認知されるための儀式であり、もっとも重要な通過儀礼でした。それをないがしろにすることは親や家を軽視し、家を基本単位として成り立つ近世社会を崩壊させることにもつながります。そのため藩は必要経費を貸し出してでも、最低限の婚礼を維持しようとしたのです。
 近世社会において、婚礼がいかに重視されていたかということがわかります。


戻る

格式ごとの婚礼内容


備考:「蒸し物一重」(1)は五人組のうち頭分の者へ婚礼祝いのことを申し述べて贈ること。「蒸し物一重」(2)は婚礼が調ったことを村を代表して庄屋に述べ、蒸し物を贈ること。

戻る

有力家の婚礼

 古くは、一定期間は結婚生活が妻方で行なわれる婿入り婚が見られましたが、近世には婚姻成立の儀式を夫方であげ、最初から妻が生家から夫方に移り生活する嫁入り婚が一般的でした。
 では近世にはどのような婚礼が執〔と〕り行なわれたのでしょうか。武庫郡西武庫村の有力家であった高寺家の娘「おなみ」が、天保4年(1833)に八部〔やたべ〕郡兵庫の商家貝屋甚左衛門家の子息甚三郎に嫁いだときを例にとって、見てみましょう。
 結納は9月28日。結納納主役である仲人は兵庫小物屋町の川崎屋源八が務め、同人が熨斗〔のし〕、昆布、鰹節〔かつおぶし〕などのほかに祝儀金・膳料を高寺家に届けました。3人、5人の奇数人数で赴〔おもむ〕くのが良いとされ、宰領貝屋源八・人足5人が同行しています。
 この日に祝言〔しゅうげん〕の日取りなどが相談されることが多く、宴が設けられました。高寺家は家の格式に恥じないよう伊勢海老・鯛・穴子・玉子等々の豪華な食材をふんだんに用いた盛大な宴で、仲人をもてなしています。
 仲人が帰路につくと、今度は西武庫村の人々が招待され、再び宴が開かれました。招待客は21人。寺も招待されていますが、おそらく同家の檀那寺の住職でしょう。昼の余り物とは言うものの、やはり豪華な食事です。この2回の宴に要した食材費は、銀108匁〔もんめ〕3分と銭1,220文でした。
 続く行事は11月10日の荷物振る舞。用意された嫁入り道具は、惣桐箪笥〔だんす〕1棹〔さお〕、惣桐小袖〔こそで〕箪笥3棹、惣桐□箪笥1棹、極上の塗長持〔ぬりながもち〕3棹、琴箱・衣装箱1荷の9荷。藩の規定では上々となります。そして惣桐箪笥から塗長持までの8荷は大坂心斎橋筋の播磨屋で購入されましたが、その額はなんと銀587匁です。琴も豪華な飾り付きの箱入りで金4両2分。「風呂敷ひとつで嫁に来た」と言われる庶民の嫁入りとは、大きな隔たりがある豪華な嫁入り道具です。近世とは、こうした大きな経済力差が、身近に感じられる社会でした。
 おなみの嫁入り道具は、これだけではありません。衣装・鏡台・茶台・火鉢・文庫・絵本・傘・扇子〔せんす〕・かるた・きせる等々、それこそありとあらゆる物が、しかも高級品が揃〔そろ〕えられました。
 これら嫁入り道具が11月10日に親戚や村の衆に披露〔ひろう〕され、また宴が催されました。招待客は23人、結納のときよりはかなり質素とは言うものの、それなりの酒宴の席が用意されました。そして、12日にまず嫁入り道具が出発しました。人足は25人。村人が務めたようで、簡単な食事が振る舞われています。

戻る

結納当日

 ここで使用した史料は、「於浪婚姻諸入用覚帳」(地域研究史料館蔵、高寺秀典氏文書)です。こうした冠婚葬祭関係の文書は、史料館蔵の各家文書にもよく残されており、各家にとって重要な史料であったことがうかがえます。しかしこれまでの近世史研究においては、かならずしも十分に活用されていません。

戻る

嫁入り

 嫁入りは11月14日。前日夕方に親戚が集められ宴席がもうけられており、出席者は女性ばかり9人です。
 そして翌朝、仲人川崎屋とその供、そして宰領綿屋和助がやって来ました。前夜と同じ食事が振る舞われたのち、いよいよ出発です。仲人川崎屋、宰領綿屋と、駕籠〔かご〕・挟〔はさみ〕箱・嫁駕籠・腰元・土産物持ち・提灯〔ちょうちん〕持ちなど総勢17人が、おなみと一緒に兵庫まで行列を組みました。荷物持ち人足は高寺家の下人や大工のほか、西宮・伊丹から人が雇われています。嫁ぐおなみは、土産物として夫甚三郎に白紬〔つむぎ〕・扇子・樽、義弟にはかた帯、義妹2人に縮緬〔ちりめん〕・縫袷〔ぬいあわせ〕を持参しました。
 翌15日には部屋見舞いが行なわれました。これは親類から赤飯・饅頭〔まんじゅう〕などが届けられる行事です。高寺家の場合、その詳細はよくわかりませんが、紙2折・祝儀金が昨日の御礼をかねて関係者に配られたようです。
 この間、親戚や村の人々からもお祝いの品が高寺家に届けられました。その数55人。帯・風呂敷・手ぬぐい・真綿・絹足袋〔たび〕・利休下駄・半紙等々の物品が多いのですが、金銭の場合もありました。

戻る

嫁入り後

 結婚後、嫁いだ娘がはじめて実家に帰ることを「花帰り」、または「初帰り」と言います。おなみは宰領・人足・腰元を従え、土産物として大鯛2枚・酒3升を持参しました。一方、高寺家は盛大な宴で出迎えました。そしてその夜は実家に泊まり、翌日、朝食を済ませ帰路につきました。
 翌天保5年3月4日、「舅入り」が行なわれました。これは高寺家の人々が仲人に連れられて、娘の嫁ぎ先貝屋を訪れる行事です。父に親戚・供が同行し、土産物として手長樽・扇子・鰹節を持参しています。
 3月13日、今度は婿甚三郎とその両親・親戚・供17人が「婿入り」のため高寺家を訪れました。やはり土産物が持参されていますが、妻の父だけでなく、妻の兄弟にも白紬・奉書紬・はかた帯・白茶綿帯、親戚にも風呂敷・扇子が配られました。
 これに応〔こた〕えて高寺家は、盛大な宴を催しました。結納当日を上回る盛大さで、贅沢な食材がふんだんに用いられました。雑煮〔ぞうに〕も振る舞われています。これまでの宴席同様、鯛も登場しています。そして、この宴席の食事を調理するために、どうやら専門の料理人も呼ばれたようです。
 この婿入りで婚姻の儀式はすべて終了しました。約四か月を要しています。総額はわかりませんが、庶民では考えられないような相当な出費だったことは間違いありません。

戻る

嫁入り行列への手荒い歓迎


 花嫁が実家から嫁ぎ先に移る際、行列が組まれました。嫁入り行列は、近隣社会への嫁の披露〔ひろう〕であり、嫁が嫁ぎ先の家の属する社会集団へ仲間入りを果たすためには欠かせない行事のひとつでした。
 この嫁入り行列に、若者や子供が礫を投げつけたり、水をかけたりして、飲食を要求することがしばしば見られました。ときに過度な振る舞いを要求したり、なかには金銀を要求する者までいたようです。そのため尼崎藩では再三にわたって、これを慎む旨の触〔ふ〕れを通達しています。
(史料は地域研究史料館蔵、吉田惣兵衛氏文書の現代語訳)

戻る

川辺郡上坂部村・橋本家の婚姻


戻る