近世編第4節/幕末動乱期の尼崎1コラム/忠栄と忠興(岩城卓二)
行動する藩主忠栄
文政12年(1829)8月、在国中の尼崎藩主・松平忠誨〔ただのり〕が27歳の若さで死去しました。忠誨には嫡子がいなかったため、祖父忠告〔ただつぐ〕の末子・忠栄〔ただなが〕が藩主となりました。
忠栄は学問を好み、藩政にも積極的に関わりました。藩政改革に熱心で、財政再建のため大坂商人大根屋小右衛門〔だいこんやこえもん〕を登用し、のちには伊丹の酒造家小西新右衛門と笹屋勘左衛門による借財整理にも取り組んでいます。
家中も給米を減額されるなど厳しい生活を強いられました。あまりの減給に生活できなくなった家中、とくに下級層から増給願いが出そうだと察知すると、先手を打って、忠栄の方から増給を言い出し、慈悲深い藩主であることを印象付けようと画策します。また、財政再建のために領民にも御用金を賦課〔ふか〕しますが、巧〔たく〕みに取り立てたようです。
その一方で、領民の意見にも耳を傾けようと、天保13年(1842)、尼崎城西大手門の腰掛け後方に目安箱を設置しています。家中の者どもの善悪を領民に書き記し投入させようというもので、記名・無記名を問いませんでした。しかも内容は藩主直々に検討するので、家中に遠慮することがないようにと命じられています。さらに側近の近習〔きんじゅう〕を「市郷見廻り」という隠密〔おんみつ〕役に任じ、内分のことでも、些細〔ささい〕なことでも申し出るよう領民に命じています。
家中や幕政、さらには経済動向などの情報をさまざまな手段で入手し、側近を手足に、藩政の主導権を握っていたようです。さらに「桜井松平家譜」(東京大学史料編纂所蔵)によると、嘉永6年(1853)、アメリカが開国を求めた際には、幕府から意見を求められ、「鎖港」を建白したと伝えられています。
忠栄は歴代藩主のなかでも行動的で、「顔の見える藩主」のひとりと言えますが、文久元年(1861)8月、病気を理由に致仕〔ちし〕、つまり隠居することになりました。58歳のときのことです。
尼崎藩の城代・用人の筆頭格の者の屋敷に訴状が投げ込まれた事件について、藩主の忠栄から直々に訴訟人の探索を家中に指示し、その探索の趣旨を説いた一件の記録です(年不詳)。
目安箱を設置し、また「市郷見廻り」という隠密役を設けて諸々の申し出を受けるようにしているにもかかわらず、その制度を利用せず、家老・用人の筆頭に訴えれば早道と考えている様子が不埒〔ふらち〕である、また、特定の人を頼り、へつらいがましい文面の訴状である点も不届きである、と忠栄の考えが示されています。
藩の政策や方針についての忠栄みずからの考えを記した記録は、この文書以外にも数点伝来しています。
隠居した忠栄と若き藩主忠興
忠栄は7人の男子に恵まれましたが、5人は早世し、6男の忠愛が嫡子となりました。ところが嘉永7年、14歳の若さで死去してしまいます。そこで7男の忠興〔ただおき〕が、家督を相続することになります。忠栄隠居直前の5月に将軍御目見〔おめみえ〕を済ませ、叙任されないまま8月に、14歳という若さで藩主に就きました。従五位下に叙されたのは12月で、何とも慌〔あわ〕ただしい若き藩主の誕生でした。
病気を理由に隠居しましたが、忠栄が藩政に携わることができない程の重病であったかどうかは、疑わしい点があります。
隠居した忠栄は、有馬の湯を取り寄せ、尼崎で養生したいと言い出しました。藩内では、「忠興様が藩主になったことで、家中も領民も活気あふれるようになったのに、忠栄様が尼崎入りされては、また逆戻りしてしまう」と案じる声が出ていたようです。そのため重臣たちは、忠栄帰国後の対策を練っています。
忠栄が推しすすめた厳しい藩政改革に、家中・領民ともにくたびれ、いろいろと理由を付けられ、志半ばで隠居に追い込まれたのかも知れません。しかし、当時の尼崎藩財政が危機的状況にあったことは間違いなく、家中との間で軋轢〔あつれき〕を生んだらしいとは言え、忠栄の政治力には重臣たちも一目置いていたようです。それは、隠居後も忠栄が、藩政にかなりの影響力を持っていたことからもわかります。
一例をあげましょう。元治元年(1864)のことです。忠栄時代から藩政の実権を握っていた儒学者服部清三郎が忠栄に宛てた書簡によると、家中の賞罰について忠栄の意に叶〔かな〕わないことがあったのでしょうか、忠栄は以後、藩政には口出ししないと言い出しました。尼崎にいる家老や江戸屋敷、そして忠興からも藩政への意見を求めましたが、無視を決め込んだようです。困り果てた服部は、「忠興様も忠栄様にお伺いのうえ、藩政をすすめておられますが、ときに若年のこともあって独断でお決めになることもあります。少年はいかに利発であっても、老人の思慮深さには叶いません」と、忠栄に翻意を願っています。幕末の尼崎藩政は、藩主忠興を中心にしながらも、依然忠栄も大きな影響力を及ぼしながらすすめられていたようです。
忠興も、後に幕府老中の候補という噂〔うわさ〕も出たようなので、政治的力量を備えた人物であったと思われます。とは言え、時々刻々と政局が変化する幕末期、服部は「このようなご時世はいつ何時異変が起こるかもわかりませんので、家来をよく撫育〔ぶいく〕し、四方八方に心を配られ、万一の時には幕府への忠節を尽くされるように御願いします。家中には怠惰〔たいだ〕・気弱な空気が漂っています。賞罰をなされ、柔弱な雰囲気を引き締め、悪巧〔わるだく〕みする者にはご用心ください」と、若い忠興を支えるのに懸命でした。
しかし若さゆえに、軽挙に走ることもあったようで、「馬の売買に忠興様が関わり、代金の取り扱いなどをなされているとのこと。風評とは思いますが、万一事実ならば早々にお止めください」と、服部から諫〔いさ〕められるようなこともありました。
もうひとりの藩主候補
実はもうひとり、忠栄の跡を継ぐことのできる藩主候補がいました。名は忠顯。忠栄の前藩主忠誨の弟、つまり忠栄にとっては甥に当たる人物です(本編第3節1参照)。
忠顯は藩主になる資格がありましたが、何か心の病を患〔わずら〕っていたようで、安政5年(1858)尼崎で養生〔ようじょう〕することになりました。藩主忠栄は、忠顯の扱いには相当気を遣〔つか〕っています。とくに尼崎で家中・領民の同情が忠顯に集まり、自分が悪者扱いされることを嫌い、いろいろと画策しています。また、忠栄のすすめる財政改革に尽くした腹心の一人片岡惣左衛門を忠顯付きの家臣にし、忠顯の行動には細心の注意を払いました。
服部清三郎は、忠顯の病は実母の怨念が憑〔つ〕いているからだと分析しています。息子の忠顯を忠栄の世継ぎにしようと悪巧みをはかり、それが叶わぬままに死ぬと忠顯に憑き、婿養子の話がまとまりかけると、なぜか忠顯が発狂するのはそのためだと言うのです。そのうえで、善之助=忠興の身に何か降りかからぬように、加持祈祷すべきだと進言しています。
幕末期の尼崎藩では、藩主の座を巡ってさまざまなできごとが起きていたようです。
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