近世編第4節/幕末動乱期の尼崎4/高まる長州藩人気(岩城卓二)




長州藩兵の落とし物

 元治元年(1864)7月21日、武庫郡西昆陽〔にしこや〕村より武庫川河原で長州藩士の武器を拾得したとの届けが尼崎藩にありました。拾得したのは鉄砲4挺〔ちょう〕、鑓〔やり〕3本、はちまきの額当2本、鎖頭巾〔くさりずきん〕1頭など22点で、長州藩に届け出たが、持ち帰ることができないので宜〔よろ〕しく頼むと言われたため、しばらくそのままにしていたと言います(地域研究史料館蔵、氏田〔うじた〕一郎氏文書)。
 文久3年(1863)8月18日の政変で、長州藩を中心とする尊攘〔そんじょう〕派は京都から追放され、会津藩・薩摩藩などの公武合体〔こうぶがったい〕派が主導権を握りました。そこで挽回〔ばんかい〕をはかった長州藩は翌元治元年京都へ進軍、7月19日戦いの火蓋〔ひぶた〕が切られましたが、長州藩は1日で敗北。長州藩兵の多くは西国街道を敗走し、西宮、打出〔うちで〕、兵庫へと逃れ、海路長州へと引き揚げていきました。
 変後、尼崎藩は伊丹に派兵して西国街道を押さえますが、多くの長州藩兵はすり抜けました。そして身軽になるためか、長州藩兵とわからないようにするためなのかはわかりませんが、武庫川まで落ち延びた長州藩兵の一部は武器を放置したようです。当初、西昆陽村では拾得品を続いて敗走してくる長州藩兵に託そうとしましたが叶〔かな〕わず、そのままにしていたことからもわかるように、西国街道の警備は村々にまでは徹底されず、多くの長州藩兵が逃げ延びたものと思われます。

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山本文之助、捕縛される

 しかし運悪く捕縛〔ほばく〕された長州藩兵もいました。7月20日、尼崎城下への北東の入口である大物〔だいもつ〕北ノ口御門でひとりの不審者が捕えられましたが、黙秘し、留置された会所の便所で自殺してしまいました。切腹したとも、喉〔のど〕を突いたとも言われています。尼崎藩によると、自殺後所持品を調べたところ山本文之助〔ぶんのすけ〕(諱〔いみな〕は鑑光〔かねみつ〕)と判明したとされますが、絶命直前にみずから名を明かしたとも言われます。
 山本文之助の捕縛前後については不明な点が多く、諸説ありますが、彼は長州藩来栖〔くるす〕源兵衛組の中間〔ちゅうげん〕の子で、当時、1人扶持〔ぶち〕の29歳。中間として禁門の変に参加し、単独で敗走中、捕縛されたことは間違いなさそうです。しかし尼崎入りした経路ははっきりせず、船で京都から下り、神崎の渡し付近で下船し、西国街道への道を間違えたか、あるいは尼崎城下を通り抜けようとして捕縛されたという説と、京都から西国街道を下り、伊丹付近で南下し尼崎城下に入ろうとしたという長州藩の記録もあり、真相は定かでありません。

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文之助、「残念様」となる

 敗走中、自害した長州藩兵はほかにもいました。ところが、一中間に過ぎない文之助は死後、墓碑が建てられ供養されました。そのうえ、文之助の墓におびただしい人々が参詣するようになったのです。
 ある大坂町人の元治2年2月の日誌によると、文之助は死に際に、「わずか4万石ほどの大名に捕まったのは残念で口惜しい。もし口惜しいことがあれば一つだけ願いを叶えてやろう」と書き残したと言い、事実、どんな病気でも「口惜しい」と願えば全快するというのです。そこでその町人も病気の子どもを連れて参詣したところ、あまりの参詣人の多さに尼崎藩が垣をしていたので、垣の外より拝んだと記しています。
 参詣ブームはその後さらに高揚〔こうよう〕し、絶え間ない参詣人を役人が制止するものの、民衆は迂回〔うかい〕してでも墓所を目指したと言います。そしていつの頃からか「残念様」と呼ばれるようになったようです。
 この異常な民衆の高揚に危機感を持ったのでしょうか。町人の日誌には、元治2年5月17日、大坂町奉行所が参詣を一切禁止したと記されています。

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高まる長州藩人気

 文之助墓所への参詣が高揚する1年前、大坂東御堂〔みどう〕門外でふたりの武士が切腹しました。その傍らには薩摩人の首がさらされ、立て札が掲げられていました。切腹していたのは長州藩の下級武士で、薩摩商船が長州藩内の港に寄港した折に乱入して薩摩人を殺害後、大坂へ向かい、首をさらしたうえ、みずからも切腹したのです。立て札には罪状として「島津斉彬〔なりあきら〕公の深旨を忘れ、外国と交易していること」が挙げられていました。
 薩摩藩は文久3年の薩英〔さつえい〕戦争後、開国に賛同するようになり、対外密貿易にも積極的に関わっていきました。ちょうどこの時期、アメリカ南北戦争の影響で日本綿花価格が高騰〔こうとう〕し、大量にヨーロッパ向けに輸出されたため、在来綿織物業は大打撃を受け、また諸物価も異常な高騰を続けていました。この輸出に暗躍したのが薩摩藩でした。そして襲撃された薩摩商船は、大坂・堺で買い付けた綿を満載していたのです。
 外国貿易による諸物価高騰に苦しむ民衆。そこにその元凶である薩摩船が襲撃され、薩摩人の首がさらされたうえ、それを成し遂〔と〕げた長州藩武士が切腹したことは、民衆の大きな共感を得ました。切腹現場には大群衆が集まり、「未曾有〔みぞう〕の大忠臣」と讃〔たた〕えられました。
 山本文之助墓所への参詣禁止後、再び切腹現場である大坂東御堂と、ふたりが葬られる千日墓所への参詣熱が高まり、さらに禁門の変後に取り壊された長州藩大坂蔵屋敷跡の柳の木への参詣もブームとなりました。蔵屋敷内にあった稲荷が柳に乗り移り、柳を煎じるとどんな病気にも効くと信じられたからです。

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大坂市中、中之島周辺/残念さんの墓所


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長州藩の策謀

 外国貿易に積極的な薩摩藩は、民衆から悪評を立てられました。その反対に、幕末政局の主導権を失った長州藩の人気は高まり、切腹したふたりの武士や山本文之助に人々は共感しましたが、実はこれは長州藩の巧妙な策謀であったと言われています。
 ふたりの下級武士は首をさらすため大坂に向かったのですが、当初、切腹するつもりなどありませんでした。しかもひとりは襲撃に参加すらしていなかったのです。ところが民衆の共感を得るには「非業〔ひごう〕の死者」が不可欠だと判断した在京の尊攘派指導部により、薩摩藩の罪状を暴露したうえで自決することを強要され、切腹に追い込まれました。つまり「大忠臣」と讃えられたふたりの切腹は、作為されたものだったと言うのです。
 これが正しいとすると、長州藩の策謀はまんまと功を奏し、民衆の心をつかむことに見事に成功したと言えるでしょう。そして何より残念だったのは、死を強要されたふたりの下級武士かもしれません。

〔参考文献〕
 本項の記述は、小野寺逸也「残念さん″l」(『地域史研究』2−1、昭和47年6月)、井上勝生『幕末維新政治史の研究』(塙書房、平成6年)に依拠しています。

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「不義之長賊」断じて許さず!


 禁門〔きんもん〕の変後、朝廷の長州征伐決定を受けて、幕府は西国21藩に出兵を命じ、元治元年11月、15万の幕府軍が長州藩を囲みました。これに対して長州藩では実権を握った佐幕派が幕府に恭順の意を示し首謀者を処罰したため、第一次長州戦争は戦闘を交えることなく終結しました。
 ところがその後、長州藩ではクーデターにより高杉晋作ら討幕派が主導権を握りました。そのため幕府は、慶応元年(1865)4月再征を布達し、閏〔うるう〕5月26日、将軍家茂〔いえもち〕が大坂城に入りました。そして尼崎城は、幕府軍西進途上の宿城となりました。
 上の史料は、その直後、松平忠興〔ただおき〕が幕府軍への参加を申し出たものです。第二次征長に対して諸藩が反対的な姿勢を見せるなかで、尼崎藩はいち早く、これに賛成したのです。この素早い反応は、当時、尼崎藩政の中心にいた服部清三郎の強い意向が働いたものと思われます(服部については、本節1参照)。
 幕末期の服部は一貫して長州藩を敵視していました。文久3年(1863)8月18日の政変後も、長州藩の動向を気にかけていたところ、長州藩が禁門の変を起こしました。これを服部は「ついに長州より手を出し、悪巧〔わるだく〕みがすべて露顕〔ろけん〕した」と歓喜する一方で、長州藩との全面戦争への備えを藩主忠興に具申し、諸藩を次のように分析しています。「因幡〔いなば〕池田家は長州藩と心を同じくしているようだが、倒幕を考えているかどうかわかりません。備前池田家も油断はできません。阿波蜂須賀家の世継ぎは少し惑わされていると聞きます。いま一番頼りになるのは会津松平家、その次は肥後細川家、彦根井伊家、筑前黒田家です。薩摩島津家、土佐山内家、久留米〔くるめ〕有馬家は、いまは幕府をあがめて仕えており、肥前鍋島家も確かです。譜代〔ふだい〕大名では中津奥平家は長州藩にかぶれているとの噂〔うわさ〕です。水口〔みなくち〕加藤家もそのような噂があります。明石松平家は不見識と思われます。東国では米沢上杉家と仙台伊達〔だて〕家は正論を唱えられます。出羽佐竹家は長州藩にかぶれています。譜代大名では宇都宮戸田家は油断なりません」
 そして、第二次征長に際して、「もしこのまま長州藩に対して寛大な処置となったら今後諸藩の成敗などできません。もし寛大な処置が下れば天下はこれまででしょう」と、述べています。
 服部にとって幕府の恩を忘れた長州藩は「不義之長賊〔ふぎのちょうぞく〕」であり、断じて許すことができなかったのです。

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