近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎4コラム/尼崎城の発掘調査(福井英治)
地下に眠る城の遺構
市立文化財収蔵庫の展示ホール及び展示室に、ここに紹介する尼崎城築城の頃の様子を伝える貴重な資料が展示されています。尼崎城は元和4年(1618)から数年かけて戸田氏鉄〔うじかね〕により築城された近世城郭で、阪神尼崎駅の南西、北城内・南城内一帯に所在した、本丸を中心に二重・三重の堀に囲まれた城郭です。
城の東西には武家屋敷と町人の町が広がり、西側には20(現在11)か寺が配された寺町があり,南には新たに築地町が造られました。戸田氏鉄の後、青山氏、松平氏と続く250年余りの間の居城となり、大坂の西の備えとして重要な役割を担いました。明治に入って廃城の憂き目をみた尼崎城は天守・櫓〔やぐら〕などが取り壊され、石垣は尼崎港築港の際に使われ、周囲の堀も次第に埋め立てられて今日の景観を曝〔さら〕すようになりました。さらに城郭内には、学校や役所など公的な施設が建設されたほかに住宅が建てられて、城の存在を示す遺構は跡形もなく失われ、江戸時代尼崎に城が存在し、城下町であったことを知る人も少なくなってしまいました。まして地下に尼崎城の遺構が残されていることなど、想像だにする人はありませんでした。
昭和62年(1987)12月、尼崎市南城内4番、旧尼崎城「松の丸」に相当する場所で行なわれた共同住宅建設に先立つ発掘調査によって、はじめて花崗岩〔かこうがん〕の巨石の石組み遺構と江戸時代の生活面を確認。一部では尼崎城築城以前にさかのぼる遺構・遺物を検出するなど、尼崎城の地上部分は破壊されましたが、地下には遺構がまだまだ残されていることがわかってきました。
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学校再建時の調査
その後、道路・住宅・図書館建設、公園造成等の工事に先立つ20数次に及ぶ発掘調査では、城の石垣・建物の礎石等が検出され,城の具体的な姿があきらかになり、絵図に示された城郭の位置が現地比定できるようになってきました。
平成7年(1995)の阪神・淡路大震災では、本丸跡に建つ尼崎市立城内小学校(現明城小学校)は大きな被害を受け、建て替えを余儀なくされました。再建工事に先立つ試掘調査によって、遺構が残存していることが判明し、平成8年3月から9月までの間、震災復興に全国から派遣された埋蔵文化財発掘調査員の協力を得て調査が行なわれ、絵図面どおりに配置された本丸御殿南半分の遺構が検出されました。本丸御殿は尼崎藩政を司〔つかさど〕る場であり、藩主の私的な生活の場でもあったところです。弘化3年(1846)に火災で焼失し、翌年再建されています。
土層断面の標本
下に掲載したのは、平成8年の調査現場からはぎ取った土層断面の写真です。この写真からどんなことがわかるのか見ていきましょう。
遺跡のはぎ取り標本は、発掘調査された遺跡の遺構や堆積〔たいせき〕状況を後世に伝えるために、遺構そのものをはぎ取って室内に展示し現場の様子を伝える手法として、近年博物館・資料館等で見かけるようになりましたので、ご覧になった方も多いと思います。
発掘を下層にすすめていくと、掘り窪んで周囲に土層の断面が現れます。この土層断面は遺跡がどのようにして形成され、どのように埋没したのか、遺構がどの面から掘り込まれているかなどを伝えてくれる重要な情報源です。その土層の堆積状況を後世に残すために、これまでは写真に撮り、図面にし、土壌のサンプルを取るなどしてきましたが、最近では現れた土層断面の土層そのものをはがし取って室内に保存をはかる例が増えてきました。土層の表面に接着剤を塗布し、薄い布をその上から被〔かぶ〕せて布と土層を密着させて、はがし取ります。分厚く土層をはがすのではなく、薄く密着させます。そのため、はぎ取られて見えているのは始めに見ていた面の裏面です。実際に見えた部分は布に密着して隠れてしまいます。
この土層断面を一見すると、下のほうには、細かく白い貝殻が、上のほうには褐色のレンガや白いコンクリートの塊・赤褐色の土管の破片が見えます。詳細に観察すると右(東)上から左(西)下に傾斜する分厚く堆積した層@があります。この層中にはカガミガイ・アカガイなど二枚貝の貝殻や小さく白く砕けた貝殻片の他、江戸時代以前の土師器〔はじき〕の破片が包含されています。貝殻を含む分厚い層の間には粘土層が挟まれていて、この層が一時期の堆積ではなく何回かにわたる堆積の結果であることを物語っています。土師器などの人工物が含まれていることから、この貝殻層は現在地の南東方向に堆積していた砂層が津波・高潮等によってこの場所に再堆積した結果だろうと推定されています。左(西)側の砂層Aはその後の堆積ですから、この貝殻の層@が地表に現れていた時は,このあたり一帯は凹凸〔おうとつ〕の激しい土地であったと推測されます。
ところが次にAが以前の傾斜地を埋め尽くすように左(西)から一気に堆積し、ほぼ平坦な土地に変わりました。この大量の土砂は今の庄下〔しょうげ〕川の洪水による結果だろうと推定されます。
その後、貝殻片を含む薄い土層Bが堆積した後、いよいよ尼崎城の築城が開始されます。Cの黄褐色の土層は整地層です。Bの土層からは,まだこの土地は起伏のある地形だとわかります。築城にあたって平坦化し、軟弱地盤を固める意味もあって盛土した整地土がCです。
土地の造成が終わると、御殿の建築工事を開始。巨大な木造建築物を大きな花崗岩の礎石で支えますが、更にその礎石を支える根石として径40〜50cmの花崗岩3〜4個を礎石の下の穴に据えていました。しかし,礎石の大半はすでに撤去されていて根石しか残されていませんでした。江戸時代の層の上には、尼崎城廃城後に埋め立てた土砂D、明治時代以後の建築工事のコンクリートやレンガなどEが掘り込まれた穴に積み重なっています。
尼崎市立文化財収蔵庫で、この土層はぎ取り標本の実物をご覧ください。
(写真はすべて尼崎市教育委員会提供)
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