近世編第4節/幕末動乱期の尼崎4コラム/東富松のおかげ踊り(中村光夫)

おかげ踊りの流行

 江戸時代のおかげ参り・おかげ踊りは、何度も大流行を繰り返しました。文政13年(1830)にも、3月から2か月にわたっておかげ参りが全国的に大流行し、それに続いて5月末頃から河内の農村でおかげ踊りが始まりました。河内・大和で大流行した踊りは年を越えて天保2年(1831)には山城・近江・丹波に広がり、摂津では3月頃から池田・宝塚・伊丹市域に、尼崎・西宮市域では6月に入って流行し始めました。そのときの東富松〔とまつ〕村での流行の様子を、村民の浅井理兵衛が残した記録「歳代記」(地域研究史料館蔵、浅井利一氏文書)から紹介します。
 現宝塚市域の山本・丸橋・中山から現伊丹市域の寺本・昆陽〔こや〕・山田・野間、現尼崎市域の時友・友行と踊りの波が北の方から近づいてくるなか、東富松村では庄屋など村役人たちが「当村は踊りは倹約」と抑えていたのですが、最初は子供たちが集まって踊り始め、そのうち親たちも毎夜のように稽古〔けいこ〕を始めてしまいました。それでも寄り集まる場所は氏神の境内だけと決めていたのですが、だんだん盛んになって隣村まで出かける者や、若者が内緒で大坂の願人坊主〔がんにんぼうず〕に振り付けを頼みにいくまでになりました。
 願人坊主の「がん徳」を10日ほど呼んで来て、村の孫兵衛家に村内3町のうち北内町と中の町の若衆が集まって稽古し始め、6月中旬から隣村に行列を繰り出しました。他村からも日に2組や3組ずつが東富松に来るという、一帯の流行ぶりでした。


「歳代記」表紙(半紙四つ折り大の小横帳)と踊り行列記載の本文(地域研究史料館蔵、浅井利一氏文書)
 理兵衛は1町2反7畝の田地を所有する東富松村の農民で、文政4年、31歳の時から呉服商売・酒取引を始め、のちには米・肥料の仲買、質屋も経営した在郷商人です。屋号は「油屋」。おかげ踊りについては、下記の行列の次第と歌の歌詞が、それぞれ記されています。

踊りの行列次第
三番叟 男三人、烏帽子尽くし舞
一番 女子供、よういさ節踊り
二番 男子供、踊り
三番 中娘、舞くずし踊り、歌
四つ目 中若衆、やんれ富士、歌
五番 がん徳振付け・大津絵踊り(下図参照)、歌
六番 若中、奴道中踊り、歌


大津絵・鬼の寒念仏(『図説大津の歴史』−大津市、平成11年−より)
 大津絵にはほかにも藤娘・瓢箪鯰〔ひょうたんなまず〕など多種の図柄があり、東海道の大津の宿で旅人相手に売られていました。大津絵節は江戸後期から明治に全国的に流行した三味線伴奏の俗曲で、大津絵の画題を読み込んで宴席の座興などで歌われました。

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踊りの熱狂と行列の統制

 踊りの行列には伊勢神宮の御札を入れた平箱に高張り提灯〔ちょうちん〕二つ、駕籠〔かご〕2丁、弁当を入れた長持〔ながもち〕4棹〔さお〕が同行し、「始まり三味線〔せん〕とちちんニて練〔ね〕り出し……唐人しよぞく(装束)ニて口上申」す、と演出も支度〔したく〕も本格的です。
 踊りの振り付けがわからないのが残念ですが、行列の次第を見ると男女の子供・中娘・中若衆・若中・男と、村人のほとんどの年齢層が踊りに出ているようです。この行列に鳴り物として三味線2、太鼓1、太鼓胴締め2、すり鉦1が加わり、「誠ニ見物見事ニ出き大当たり大当たり」と記す理兵衛も三味線弾きを務めています。踊りに出向いた先々で酒や饅頭〔まんじゅう〕・リンゴ・砂糖水を振る舞われた記録によると、北は西国街道沿いの寺本、西昆陽、東は大西・久々知〔くくち〕、南は難波〔なにわ〕・長洲〔ながす〕に尼崎城下、西は武庫川を越えて小松(現西宮市)まで行っています。尼崎城下まで直線距離で約4.5km、途中の村々でも踊りを披露〔ひろう〕していけば、弁当も必要だった訳です。
 このときのおかげ踊りの総費用が238匁〔もんめ〕6分6厘(金1両60匁替えとして約4両)と記録されていて、中の町と北内町で折半して各町内の講に割り当てたと言います。両町とも数人の世話人がいて弁当の用意や進物品受領の記録、費用の精算をしており、村民の踊りへの熱狂とは別のところで組織的に運営していた人たちの存在がうかがえます。

〔参考文献〕
「浅井理兵衛『歳代記』」(『地域研究』15−2、昭和60年12月)
藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(岩波新書、昭和43年)
西垣晴次『ええじゃないか』(新人物往来社、昭和48年)
矢野芳子「『おかげまいり』と『ええじゃないか』」(青木美智男ほか編『一揆4 生活・文化・思想』東京大学出版会、昭和56年)

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