近代編第1節/尼崎の明治維新2/廃藩置県(山崎隆三・地域研究史料館)




 明治4年(1871)の廃藩置県〔はいはんちけん〕は、全国の藩を廃止し府県に置き換えるという、明治維新変革において最大の画期的な制度改革でした。政府直轄領である府県と大小の藩領が入り組む状態を解消し、統一的な領域支配体制を全国的に整備することは、維新政府確立のうえで必要不可欠なことでした。

「藩制」の布告

 廃藩置県に先立つ藩制改革として実施されたのが、明治3年9月の「藩制〔はんせい〕」布告でした。版籍奉還〔はんせきほうかん〕に続いてさらに諸藩に対する統制を強化することを目的として、藩治職制〔はんちしょくせい〕の定めた執政〔しっせい〕・参政などに替えて大参事・少参事・大属・少属といった職制を定め、藩財政についても新たな規定を設けるものでした。藩制布告を受けて、尼崎藩では執政の堀式部と服部清三郎が大参事に就任したほか、藩政の実務を担う大属・権大属には小島〔おじま〕廉平・小森衛・禰津〔ねづ〕平吾・久保松照英といった、のちに活躍する中級藩士が進出しました。こうして、新たに要職についたメンバーのほとんどが中・下士層出身であり、元家老職の面々は堀を除いて非役となるなど、藩の人事は一新されました。
 また藩制は藩財政の全国共通基準を定め、版籍奉還後に実収高の10%と定められた藩知事の家禄を除いた残り90%の1割(=実収高の9%)を陸海軍費とし、その半額は陸軍費(藩兵の費用)、残り半分は海軍費として政府に上納されます。陸海軍費を除いた残り、つまり実収高の81%をもって行政費・藩士家禄を支出するほか、藩債の返済、藩札の償却に充てることとされました。

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破綻寸前の藩財政

 尼崎藩の場合、藩制が布告された明治3年の、尼崎町で販売される上級米の値段を基準に1石=8両として計算すると、実収高2万7,670石は約22万1千両に相当します。これに対して藩債累積額は30万両以上であり、明治3年から4年にかけての藩財政を記録していると考えられる史料(筆写史料「従庚午十月至辛未九月 歳入歳出取調表 尼崎県」)によれば、年間の利払いだけでも3万8千両にのぼっていました。しかも、この明治3年は米価が高騰〔こうとう〕した年であり、これが半値近くまで下がった翌4年から5年にかけての値段により実収高を換算した場合、年間収支は大幅な赤字となり、藩債返済の見込みがたたないばかりか利払いさえ懸念される状態でした。藩債の多くは大阪や城下の商人からの借入金が占めていたほか、領内村々からの借り入れも少なからずあり、17万両以上が明治元年以後の借り入れと、明治維新以降も年々債務が増え続けていたことがわかります。
 このような財政破綻〔はたん〕は尼崎藩のみならず、この時期各藩に及んでおり、廃藩置県以前に盛岡・丸亀など10以上の藩が主として財政難を理由に、自発的に廃藩を申し出ているほどでした。尼崎藩においても明治4年正月、藩主忠興〔ただおき〕が知事免職願いを差し出す意向を示します。このため大参事の服部が、朝廷から命令されればそれまでだが、こちらから言い出すことはないと藩主を諫〔いさ〕めたというエピソードが、服部家の史料のうち「公私諸案」という文書に記録されています。

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村々への借金

 幕末から明治初年にかけて極度の財政難に陥〔おちい〕った尼崎藩は、藩領村々から「調達金」と称する借り入れを行なっていました。
 下に掲げたのは、尼崎藩領であった東新田村・柳川啓一氏文書(地域研究史料館蔵)のうち明治6年4月の「旧尼崎藩調達金書付」です。明治4年7月に東新田村が尼崎藩に対して千両の「調達金」を貸し付けており、利足を加えると1,020両の負債が残っていることを、東新田村の戸長・村役人が連名で兵庫県令の神田孝平〔たかひら〕に報告しています。
 東新田村は西大島村とともに、明治5年に西宮の酒造業・辰馬〔たつうま〕吉左衛門から借金を返済するよう訴えられており、この借金は尼崎藩が辰馬から借り入れる際、村々に肩代わりさせたものであると主張しています。東新田村の場合は上記の千両がこれにあたることが、同じ柳川氏文書中の別の文書からわかります。
 こういった、村々にも重くのしかかっていた藩債の問題を解決していくことが、新政府にとって大きな課題のひとつとなりました。


明治6年4月「旧尼崎藩調達金書付」(地域研究史料館蔵、柳川啓一氏文書)

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廃藩置県の断行

 維新政府にとって、諸藩の財政破綻、藩体制の崩壊状況は放置できない問題でした。対外的独立の維持・強化を前提に中央集権化を進める政府は、地方統治の混乱と弱体化の是正、強力な支配体制・国家財政基盤の確立に乗り出します。その一方で、直轄地における貢租負担に対する一揆頻発〔ひんぱつ〕をはじめ、国家体制全般にわたる急激な改革が各地で士族や農民による反政府運動を呼び起こしていました。
 こういった状況の抜本的改革をめざす政府は、薩摩・長州・土佐の藩兵による政府直属軍を編成することとし、明治4年6月までに親兵約1万を東京に集結させます。この軍事力を支えに、強い反発が予想される廃藩置県が断行されました。明治4年7月14日、廃藩置県の詔書が発表され、命ぜられて上京した藩知事たちを一律に罷免〔ひめん〕し、地方官として府知事・県知事を新たに任命します。これにより全国の藩は廃止されて県に置き換えられ、それまでの府県と合わせて全国1使(開拓使)3府302県の地方機構となりました。
 廃藩置県により7月15日をもって尼崎藩は廃止され、藩主櫻井忠興は上京。替わって尼崎県が設置されます。市域にはこのほか小泉藩・半原〔はんばら〕藩の飛び地がありましたが、それぞれ小泉県・半原県(のちに額田〔ぬかた〕県と改称)となりました。次いで11月20日の布告により府県の大幅な統合が実施され、尼崎県・小泉県・半原県を吸収した第二次兵庫県が成立します。明治5年正月には兵庫県の所管であった豊島〔てしま〕・島上・島下・能勢の四郡が大阪府に移管され、摂津国西部の川辺・武庫・菟原〔うはら〕・八部〔やたべ〕・有馬の五郡を兵庫県が管轄することになりました。明治5年2月10日には尼崎県の接収が完了。これにより閉鎖された尼崎県庁に替わって、尼崎町に設置された兵庫県尼崎出張所が川辺郡の南半分と武庫郡全域を管轄しますが、4月25日には出張所が西宮に移転し、尼崎出張所は廃止されます。

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旧尼崎藩兵の解散

 明治4年11月の尼崎県廃止にともない、旧藩時代以来の常備兵・予備兵も解散することとなります。これに先立つ明治3年2月、政府は各藩常備兵の編成規則を定めます。この規則が指定する高1万石につき1小隊(60人)という基準により、表高4万石・実収高2万7千石余の尼崎藩は、それまで4個小隊であった常備兵を実収高にもとづき縮小。一番・二番小隊(士官・下士官を除いて各56人)、三番小隊(同34人)、大砲手21人のほか、輜重〔しちょう〕兵・楽手〔がくしゅ〕・予備兵などからなる編成となりました。
 尼崎県廃止の翌12月25日をもって、尼崎藩設置以来3世紀半にわたって西摂防備・大坂守衛という重責を担ってきた旧尼崎藩兵は解隊しました。兵庫県から大阪鎮台〔ちんだい〕に対して行なわれた尼崎県常備隊・予備隊解隊の報告には、解隊時の兵力281人(うち士官9人、下士官18人)と記録されています。
 藩兵解隊後の軍事的空白を埋めるため、政府は明治4年8月に東京・大阪・東北(仙台)・鎮西(熊本)に4鎮台を設置しています。徴兵制度が確立するまでの間は旧藩兵が鎮台兵として集められており、大阪鎮台に入営する旧尼崎藩士も少なくありませんでした。

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旧藩の残した債務の整理

 廃藩置県にともない、多くは破綻状態であった旧藩の債務は新政府に引き継がれます。債務のうち一定の部分は切り捨てられますが、比較的近年の債務について新政府が返済に責任を持ったことが、大きな抵抗なく廃藩置県を実施し得た要因のひとつとなりました。明治5年2月に政府が決定した藩債処分の大綱は、天保14年(1843)以前のものは「古借」としてすべて切り捨て、弘化元年(1844)から慶応3年(1867)までのものは「中借」として無利息50年賦返済、明治元年(1868)から廃藩までのものは「新借」として25年賦・3年据え置き・4分利付き返済と定めます。明治6年3月には「新旧公債証書発行条例」を布告し、それぞれさきの条件で旧債(=中借)と新債(=新借)の債主に対して交付する「旧公債」「新公債」を発行していきます。これらの公債は、新公債が明治29年、旧公債が大正10年(1921)に償還を終えています。
 すでにふれたように、尼崎藩の場合も巨額の債務に苦しんでおり、明治3年の時点での累積債務は30万両に達していました。その内訳は、古債(=古借)など切り捨てられた藩債約4万9千両、旧債約6万9千両、新債約17万3千両などとなっています。
 旧藩が商人などを札元として発行した藩札も、それを金銀に引き替える責任は藩が負っており、実質的には藩の債務でした。慶応4年の新政府による銀目〔ぎんめ〕廃止(大阪中心に行なわれていた銀遣いを廃止し、金と銭による決済に統一する)と太政官札〔だじょうかんさつ〕(金札)発行にともない、尼崎藩も金札を発行し、それまでに発行した3千貫匁〔もんめ〕の銀札を銭札と交換しました。その交換レートは札の額面により異なっていたようですが、藩の布達によれば、おおむね銀1匁=銭50文であったと考えられます。このため、銀札3千貫匁の交換に必要な銭札は約15万貫文となりますが、明治3年4月に尼崎藩が政府に報告した銭札発行高は、その倍の30万貫文に達していました。藩の債務が無制限に膨〔ふく〕らむのを防ぐため、政府は明治2年12月5日にはすでに新たな藩札発行を禁止していましたが、尼崎藩はその前後に旧来の銀札発行額と同額程度の銭札を新たに発行したと考えられます。さらに明治2年9月には1万両の金札が発行されており、これらは裏付けとなる支払準備金もなく、藩の力では引き替えに応じて決済できる見込みのない、まさにペーパーマネーでした。
 明治4年6月8日、政府はついに藩札流通を禁止し、政府発行の新貨幣との交換を命じます。尼崎藩札と新貨幣の交換比率は金札1両が新貨1円、銭札1貫文が新貨8銭と、ほぼ全国平均に近い交換レートでした。

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「秩禄処分」=旧藩士の家禄の解消

 廃藩と藩債務処理の最後の仕上げは、「秩禄〔ちつろく〕」すなわち旧藩士の家禄の解消でした。廃藩後も継続された旧藩主(華族)・藩士(士族)への家禄給付は、新政府財政支出の約3分の1から2分の1を占め、財政圧迫要因であったためその解消が急務でした。このためまず明治5年、政府は士族籍の整理を行ないます。士族・卒〔そつ〕の区分を廃止したうえで世襲の者を士族、一代限り抱えは平民、一代限り給禄を受ける者は一代卒と定め、当主以外の男子・隠居への給禄を廃止するなど給禄対象者を削減していきます。これにより、尼崎藩の場合は、明治2年6月には1,137人(士族529・卒608)に対して1万3,130石の禄を支給し、さらに藩財政から知事の家禄を支出していたのが、明治5年には774人(華族=元藩主1・士族773)に1万971石の禄支給(別に一代卒7人に給禄)となりました。
 続いて政府は明治6年12月に家禄奉還〔ほうかん〕規則を布告し、希望する士族の世襲家禄6年分(一代限り家禄は4年分)の金額を、現金と秩禄公債(8分利付公債)に折半して交付することとします。同時に創設された家禄税が高率の累進課税であったこともあって、公債交付申し出額は全秩禄支給額の約4分の1に達しました。尼崎藩の場合、明治12年6月現在士族総数681人のうち、全額奉還した者440人と高い比率を占めており、もはや家禄では生活できない旧尼崎藩士が多かったことがうかがわれます。この家禄奉還は、士族が農工商業に転ずるための資金を給付するという名目で行なわれたため「仰資〔ぎょうし〕奉還」とも呼ばれました。
 明治8年9月、政府は家禄を完全に解消するため、家禄石高を過去3年間の石代〔こくだい〕値段(年貢金納時の米の換算値段)平均により換算した「金禄〔きんろく〕」とし、翌9年8月、すべて公債に替えて交付しました。その際金禄の高や種類により等級を定め、世襲の者は元高の5〜14年分の5〜7分利付公債、一代限りの者はその半額などの交付基準が設定されました。これにより、旧尼崎藩士のうち、すでに家禄を奉還した者を除く241人が金禄公債を交付されました。
 金禄公債交付の結果、毎年の家禄支出が解消された一方で、さきの秩禄公債約1,660万円に加えて金禄公債約1億7,400万円と巨額の政府公債が残りましたが、明治39年にはすべて償還されました。
 こうして、給付される家禄により生活していた士族は、それに替えて受領した現金や公債によって今後の生計を立てていかねばならなくなりました。公債の利子により生活できるのはごく一部の高禄の者にすぎず、多くの士族は貧窮にあえぎ、公債を売ってその場しのぎの生活費にあてざるを得ない状況でした。奉還家禄や金禄を元手に起こした事業の多くも、「士族の商法」の言葉どおり失敗に終わったと言われています。

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