近代編第3節/工業都市尼崎の形成/この節を理解するために(島田克彦)
この節で取りあげる日露戦争から第一次世界大戦後にかけての時代、城下町のたたずまいを残していた尼崎町に市制が施行され、日本資本主義を支える近代工業都市へと変貌〔へんぼう〕していきます。それとともに、多くが農村地帯であった現尼崎市域の村々にも、都市化の波が徐々に訪れました。
東アジアの植民地化と大日本帝国
19世紀末、アフリカの植民地化をほぼ終えたヨーロッパ列強諸国は、次いでアジアの植民地化に乗り出し、なかでも清国の分割と植民地支配に大きな関心を寄せます。これに対して、日清戦争を通じて朝鮮半島から清国の影響力を排除した日本は、朝鮮支配の強化に加えて満州〔まんしゅう〕(中国東北部)の独占的な支配をも目論〔もくろ〕み、列強が繰り広げる世界分割競争へと参戦していくことになります。
明治33年(1900)、こういった列強の進出に反発した中国民衆による義和団〔ぎわだん〕の反乱が起こると、日本を含む列強諸国は鎮圧に乗り出します(北清事変)。この際、義和団鎮圧を口実に満州を占領したロシアに対して日本が撤兵を求め、両国とも朝鮮・満州の権益を主張して譲らぬまま、ついに明治37年2月、両国間に戦争が始まります。国民に多大な犠牲を強いた日露戦争でしたが、アメリカの仲介による講和条約ではロシアからの賠償金を得ることができず、国民の不満が各地で講和条約反対運動となって爆発しました。
日露戦争後の日本は、日清戦争で得た台湾に続いて、明治43年の韓国併合により朝鮮を完全に植民地化し、東アジア唯一の植民地支配国となります。さらなる植民地拡大を目指す政府は、日露戦後も軍備増強政策を継続。このため国民は、物価高騰〔こうとう〕と増税に苦しめられます。明治40年の小学校令改正・義務教育延長による教育費増大など、市町村は歳出増を強いられる一方で、国税確保を保証するための地方税・付加税への制限が戦後も継続され、地方財政を圧迫していきました。
工業都市尼崎の誕生
日露戦後から第一次大戦期にかけては、尼崎町や小田村・大庄〔おおしょう〕村南部で会社や工場の設立が相次ぎ、工業都市としての基盤が形成されていきました。尼崎地域における産業革命の象徴となった尼崎紡績は、この時期、綿糸紡績と織布の兼営を実現し、全国規模の大企業へと成長します。また臨海部には旭硝子〔ガラス〕、横浜電線といった財閥系企業や、東亜セメント、日本リーバ・ブラザーズなどがいずれも明治40年代に進出するなど、工業地帯化がすすみました。
交通・運輸の面でも、明治38年の阪神電鉄開通や40年の阪鶴〔はんかく〕鉄道国有化に加え、町村による道路・橋梁〔きょうりょう〕工事などにより、交通量増大への対応がはかられます。阪神電鉄による沿線への電力供給開始(明治41年)や、尼崎瓦斯〔ガス〕による都市ガス供給(大正元年−1912−)のほか、郵便・電信・電話の利用も急速に広がっていきました。こうして企業進出にともない、生産活動を支える都市基盤の整備がすすむとともに、近代的な生活が一般家庭にも普及し始めました。
なお、工業化がすすむなか、明治44年には尼崎工業者共和会が設立され、大正5年には商業・金融も加えた尼崎商工共和会へと改組しています。
都市問題の発生と市制施行
工業化・都市化がすすんだこの時代は、その矛盾やしわ寄せが地域環境や人々の暮らしのうえに影を落とし始める時期でもありました。工場の排水や煤〔ばい〕煙による汚染被害、工業用水汲〔く〕み上げに起因すると考えられる地下水位の変化や水質悪化は、人々の健康を脅かし、農業生産に対しても大きな打撃を与えました。また公共用地や住宅地が不足し、役所や学校の敷地を確保するため旧尼崎城の濠〔ほり〕が埋め立てられるなど、人々が親しんできた歴史的な景観も、徐々に失われていきました。
こうしたなか、大正5年4月、尼崎町に立花村の東難波〔なにわ〕・西難波を加えた区域に市制が施行され、尼崎市が誕生します。行政需要が増大するなか、郡による監督行政からの脱却と、行財政の自主性確保を求める声が町内で高まったことが、市制実現の要因となりました。誕生したばかりの尼崎市は、上水道を敷設して懸案であった衛生問題の改善に努めるとともに、教育行政の拡充や都市計画の立案に取り組み、都市にふさわしい社会基盤の構築を目指していくことになります。
第一次世界大戦期の尼崎
列強の植民地争奪戦が激しさを増すなか、大正3年7月、ついに史上初の世界大戦が勃発します。同年8月、日本も日英同盟にもとづいて参戦し、中国山東〔シャントン〕省のドイツ租借地〔そしゃくち〕とドイツ領南洋諸島を占領します。さらに、ヨーロッパでの激しい闘いのなか、列強がアジアから後退したのに乗じて、日本は満州をはじめとする中国大陸での独占的権益強化を求める「21か条要求」を中国に突きつけ、強い反発を引き起こします。
一方、ヨーロッパからの輸入途絶やアジア・アフリカ市場の開放、交戦国の軍需〔ぐんじゅ〕増大などが、日本経済にかつてない好景気をもたらしました。この大戦景気により、尼崎地域の企業は大きな利益を上げ成長を遂〔と〕げます。大日本紡績(元尼崎紡績)のように、日本軍の占領下にあった山東半島の青島〔チンタオ〕に進出して「在華紡」のさきがけとなる企業が出現する一方で、海軍軍需と密接な関係を持つ住友伸銅所のように、新たに尼崎へと進出してくる企業もありました。
こうしてますます工業化がすすむ尼崎地域へは、九州・沖縄・四国・中国といった西南日本各地から労働者が流入し、さらに日本の植民地となった朝鮮半島からの渡航も本格化します。故郷を離れた多くの人々は、尼崎地域の歴史の新たな担い手として、地域社会に定着していきました。
また、阪神地域の都市化と交通量増大を背景に、大阪・神戸間を結ぶ阪急電鉄が大正9年に、阪神国道が昭和元年(1926)にそれぞれ開通し、沿線の市街地開発にも大きな影響を及ぼしました。
デモクラシーの時代
大正7年夏、米価をはじめとする諸物価が高騰するなか、全国各地で米騒動が発生します。尼崎市・小田村においても多くの米穀商や農家が襲われたこの事件は、非組織的な暴力の暴発と言うべきものでしたが、全国で民衆が生活権擁護のために立ち上がった事実は、労働者・農民・被差別部落民・女性といった社会の不合理な圧迫や人権抑圧に苦しむ人々に勇気を与えました。米騒動に加えて、ロシア革命(大正6年)や国際連盟・国際労働機関(ILO)の設置といった国際情勢もあって、大戦後はさまざまな社会運動が高まりを見せます。
明治中期以降急速に工業化・都市化がすすんだ尼崎地域においても、社会的な矛盾が顕在化するなか、労働運動や農民運動が徐々に成長していきました。労働者・農民の政治意識の高まりは、大正末の男子普通選挙制度成立後、地方議会選挙における無産政党議員の当選や、日常的な政治的要求運動となって表れます。
こういった国内的なデモクラシーの高まりの一方で、大戦末期の相次ぐ革命によってヨーロッパや世界を支配してきた帝国が崩壊し、新興国家が次々と独立したことから民族自決の原則が唱えられるようになり、その波は東アジアにも波及します。その結果、大正8年には日本の植民地支配に抗議する三・一〔さん・いち〕独立運動が朝鮮で、また21か条要求の破棄を要求する五・四〔ご・し〕運動が中国で発生するなど、立ち上がったアジアの民衆の矛先〔ほこさき〕は、植民地支配の拡大強化をめざす大日本帝国へと向かうことになりました。