近代編第4節/十五年戦争下の尼崎6/全面戦争と戦時経済(佐賀朝)




日中全面戦争と軍需景気

 昭和12年(1937)7月7日、北平〔ペイピン〕(北京〔ぺきん・ペイチン〕)郊外で盧溝橋〔ろこうきょう・ルゥコウチアオ〕事件が起きると、8月には戦火が中国全土に飛び火し、日中全面戦争へと拡大します。開戦とともに、9月には臨時資金調整法と輸出入品等臨時措置法が公布され、戦時経済統制が開始されます。軍需〔ぐんじゅ〕への優先的な資金配分、民需品の輸入制限と外貨の軍需資材購入への振り向けなどが実施され、昭和13年4月には国家総動員法を公布。軍需最優先の物資動員計画が立てられ、国内経済の全分野にわたる動員体制が整えられていきます。
 昭和12年12月の南京〔なんきん・ナンチン〕占領後も抗日の動きはやむことなく、中国全土に拡大。日本側は早期講和を断念し、やがて戦争は泥沼化していきます。国内では軍需拡大にともなう景気の上昇が昭和14年頃まで続きますが、その一方で農村部での兵力動員や都市への人口流出による労働力不足と生産の減退、都市部においても戦時インフレによる生活費高騰〔こうとう〕など、市民生活は次第に戦時経済に圧迫されていきました。

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重化学工業化のさらなる進展

 国家総動員体制が成立するとともに、軍需の激増と生産力拡充施策の実施により、各産業分野は大きく再編成されます。この結果、軍需に直結する重化学工業部門においては、投資と生産の拡大、工場の拡充・新設がすすみます。尼崎地域は、こうした軍需拡大の影響を受けて、さらに重化学工業化が進展した典型的な工業都市のひとつでした。
 尼崎市の場合、日中全面戦争が始まる前後の昭和11年と15年を比較すると、工業生産額と労働者数のいずれにおいても4年間で2倍前後の伸びが見られ、さらに全工業生産額に占めるおもな重化学工業分野(金属・機械器具・化学)の比率は、約6割から7割に増加しています。また、大庄〔おおしょう〕村においては昭和15年の全工業生産額に占める重化学工業の比率が約8割と、さらにこの分野に特化していたことがわかります。

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徴用と朝鮮人強制連行

 労働力不足が深刻化するなか、昭和14年7月、国民徴用令が公布され、16歳以上45歳未満の男子と25歳未満の女子を、総動員業務を担う官庁や政府の管理・指定工場に徴用できることになりました。徴用の対象には植民地である朝鮮の人々も含まれており、当初は各事業主の募集という形をとっていましたが、昭和17年3月以降は行政当局が強制的に動員する「官斡旋〔かんあっせん〕」へと移行します。
 強制連行された朝鮮人たちが労働を強いられたのは、鉱山や軍需工場などといった重労働の現場でした。大規模な軍需工場が多かった現尼崎市域は、全国的に見ても多くの朝鮮人労働者が連行された都市のひとつであったと考えられます。敗戦後に厚生省が実施した「朝鮮人労務者に関する調査」には、少なくとも現市域の8工場において887人が、官斡旋徴用により動員されていたことが記録されています。また『尼崎市史』第8巻掲載の大庄出張所文書や『特高月報』などの史料が、現市域にあった主要鉄鋼工場などにおける朝鮮人労働者使役の実態を記録しています。兵庫朝鮮関係研究会の研究文献などはこれらの記録や証言を集計して、さきの8工場以外に10以上の工場において、それぞれ40人から2百数十人の朝鮮人労働者が働いていたことをあきらかにしており、これらの少なくない部分が強制連行によるものであったと考えられます。
 朝鮮人労働者たちが働く職場や寮の環境は劣悪で粗末な食事しか与えられず、わずかな賃金と厳しい監視のもと作業中の負傷事例や逃亡する者も少なくなかったと言います。さらには虐待による死亡事例もあった、という証言も記録されています(後掲の参考文献参照)。

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中国人船員の強制労働、捕虜収容所

 一方、昭和17年11月には中国人労働者の「内地移入」が閣議決定され、翌18年4月には中国人の強制連行も始まりました。これより以前の昭和17年に、拿捕〔だほ〕されたオランダ船の中国人船員が法的根拠のないまま尼崎市内企業において抑留され、強制的に就労させられていた事実も、近年あきらかにされています。
 また、西高洲〔たかす〕町の大谷重工業尼崎工場には、大阪俘虜〔ふりょ〕収容所(捕虜収容所)尼崎分所が昭和18年1月20日から20年6月16日まで開設されており、関係者の証言によれば、イギリス人捕虜約300人が働いていました。このほか、市内の複数の作業現場や事業所で捕虜を目撃したという証言が、さまざまな文献に記録されています。

〔参考文献〕『兵庫と朝鮮人』(兵庫朝鮮関係研究会編、ツツジ印刷、昭和60年)、『朝鮮人強制連行調査の記録−兵庫県編−』(朝鮮人強制連行真相調査団編、柏書房、平成5年)、塚崎昌之「戦時中の大日電線尼崎工場の中国人労働者について−『外務省報告書』にない中国人強制連行−」(神戸史学会『歴史と神戸』42−4、平成15年8月)

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戦時期の尼崎地域臨海部工場群


 昭和10〜15年頃の地図などをもとに米軍が作成した地図から尼崎臨海部を抽出し、下表の工場位置を番号で示しました。
(米国立公文書館蔵「米国戦略爆撃調査団史料」より、資料協力:国立国会図書館)


工業名称 所在地 おもな製品 従業員数
1久保田鉄工所武庫川工場 尼崎市(旧大庄村域) 西新田 金属工業 825
2日本人造石油(株)尼崎工場 尼崎市(旧大庄村域) 砂浜 化学工業 543
3日本石油関西製油所 尼崎市(旧大庄村域) 西埋立地 航空燃料 238
4尼崎製鉄 尼崎市(旧大庄村域) 又兵衛新田 銑鉄 827
5日本油脂尼崎工場 尼崎市(旧大庄村域) 又兵衛新田 人造石油 546
6日亜製鋼尼崎工場 尼崎市(旧大庄村域) 中浜 金属工業(釘) 1,874
7尼崎製鉄製鋼工場 尼崎市(旧大庄村域) 中浜 製鋼 2,663
8大阪機械製作所 尼崎市(旧大庄村域) 中浜 航空機部分品 1,770
9中山製鋼所尼崎工場 尼崎市(旧大庄村域) 中浜鶴町 製鈑 1,161
10日本発送電尼崎第一発電所 尼崎市(旧大庄村域) 末広町 電気業 502
11日本発送電尼崎第二発電所 尼崎市(旧大庄村域) 末広町 電気業 456
12古河電気工業大阪伸銅所 尼崎市(旧大庄村域) 道意新田 金属板・管 4,141
13東洋製鋼(株) 尼崎市(旧大庄村域) 道意新田 鋼材 445
14日本鍛工尼崎製造所 尼崎市(旧大庄村域) 又兵衛新田 火造鍛冶業 1,225
15神戸製鋼尼崎工場 尼崎市(旧大庄村域) 道意新田 ワイヤーロープ 543
16尼崎船渠(株) 尼崎市(旧大庄村域) 末広町 鋼船製造 332
17大谷重工業尼崎工場 尼崎市 西高洲町 金属工業・工作機械 3,050
18久保田鉄工所尼崎工場 尼崎市 西向島町 工作機械 1,601
19旭硝子尼崎工場 尼崎市 西向島町 ガラス 983
20日本硝子尼崎工場 尼崎市 西向島町 ガラス類・諸壜栓 234
21住友金属鋼管製造所 尼崎市 東向島西之町 鉄製錬・材料 9,315
22理研工業尼崎工場 尼崎市 西向島町 兵器機銃 210
23日立製作所尼崎工場 尼崎市 西高洲町 起重機 749
24関西硫酸(株) 尼崎市 東浜町西海岸町 硫酸製造 280
25大日電線(株) 尼崎市 東向島西之町 電線 1,289

〔備考〕
1)豊島源与旧蔵・尼崎警察署「警備指揮運用書」のうち昭和20年4月頃作成と推定される「要警備対象物件調査票」(『地域史研究』2-1、昭和47年6月掲載・内田勝利「尼崎市の戦災資料」所収)より臨海部の大規模工場(従業員200人以上)を抽出した。
2)各項目とも原則として史料記載に従ったが、工場名および地名については一部修正した。

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