近代編第2節/尼崎の町と村5/明治中後期の旧尼崎城下(辻川敦)




 明治20年代以降、尼崎町や周辺地域の工業化がすすむ一方で、旧尼崎城下においては近世以来の伝統的な産業が営まれ、人々の暮らしが息づいていました。
 ここでは、当時の記録や史料、写真などから、その様子をたどってみることとしましょう。

尼崎町の商家青年の日記から

 旧城下風呂辻町のうち、本町〔ほんまち〕通り沿いの一角に店を構える高田家は、酒・食用油・石油などの卸し・小売り業を営んでいました。この高田家の次男である伊之助青年(明治26年−1893−生まれ)が、高等小学校在学中であった明治39年と、卒業後の42年から大正2年(1913)にかけて、市販の日記帳や手帳、和紙の帳面などにつけていた日記計6冊が残っており、昭和57年(1982)に高田家から地域研究史料館に寄贈されました。明治期尼崎町の青年が、日々の暮らしや仕事の様子を記した貴重な記録です。たとえば、明治39年の正月の項には、次のように記されています。

 一月一日 月曜 四方拝 晴寒
 起床六時〇分。本日僕は少し早く起床し若水にて顔を洗い雑煮を祝い、それより学校の式に行き帰りしは十一時なり。午後は伊丹より、父が午前中に行きし故、母帰る。なお本日は兄とともに得意先へ手拭〔てぬぐい〕・引札〔ひきふだ〕及び通〔かよい〕を配布すべき由なりしが、母の帰りがおそかりしためにて明日に延期せり。夜は母とともに貴布禰〔きふね〕神社へ参拝す。就蓐〔しゅうじょく〕十時二十分。

  得意先へ配る予定であった「引札〔ひきふだ〕」とは宣伝チラシのこと。「通〔かよい〕」とは掛け売りを記録し、後日代金を回収するための控えとなる帳面のことで、翌日には兄と手分けして午前中のうちに配布し終えています。また「就蓐〔しゅうじょく〕」とは床に就くことを言います。正月と言えども、朝早くに起床し、学校行事や家業の手伝いなどに忙しかったことがわかります。

戻る

商売の様子

 このように、当時はかならずしも現金商いではなく、商品の種類によっては掛け売りが一般的でした。それゆえ、期日ごとの請求と売り掛け代金の回収が大切な仕事でした。明治43年の日記から。

 六月二十六日 日曜 雨
午前五時半起床。通集〔かよいあつめ〕をなす。父書出しを書き始めたり。(六月二七日略、二八日記載なし)

 六月二十九日 水曜 晴
 午前五時起床。岩井来りて書出しを配付す。本日在方〔ざいかた〕のサナブリ其の他の休ありて店甚忙はし。(後略)

 六月三十日 木曜 雨夕晴
 午前五時起床。岩井来り掛取〔かけとり〕をなす、西町吉強へ父の生命保険料を収む、又役場へ税金を収む。本日も昨日の通り店多忙なり。

 月末近くなると、得意先の「通」帳を集めて掛け売り代金を集計し、「書出し」=請求書を作って配付、さらに「掛取〔かけとり〕」=代金の回収にまわります。サナブリというのは田植え後の休みのことで、農作業が休みになった「在方〔ざいかた〕」(農村部を指す、町方に対応する言葉)の人々が来店したため忙しかったようです。
 このほか、高田家は外資系の「ライジングサン石油」という会社と取り引きをして石油を扱ったり、遠く豊岡(兵庫県)から酒類の注文を受けたりと、手広く商売を行なっていました。この当時、石油製品は、灯火用の灯油や農家向けの殺虫油、工場の発動機燃料や機械油などといった需要がありました。高田家の場合、日記から工場に製品を納入していることがわかっており、灯油・殺虫油を扱ったかどうかは不明です。

戻る

余暇の楽しみ

 商売に忙しい毎日でしたが、その一方で日々の生活のなかには、娯楽や息抜きもありました。明治42年の日記には次のように書かれています。

 一月二十四日 日曜 晴
 本日六時半頃に起きたり。兄は五時頃より丹波の城山稲荷へ参りたり、午後三時頃帰り来れり。夜兄常念寺へ行けり、八時頃戻る。それより父と二人にて桜井座へ行けり、狂言は仇と仇なりしが、あまり面白からず、十一時四十分帰宅す。

 神社仏閣への参詣と、芝居や映画は一番の娯楽であったらしく、日記には伊之助青年と父・兄が、入れ替わり立ち替わり出かけている様子が記されています。参詣先は、貴布禰〔きふね〕神社など町内のほか、中山寺・門戸厄神〔もんどやくじん〕といった近隣のよく知られた名所にしばしば詣でています。なお兄が大物〔だいもつ〕町の常念寺に行ったのは参拝のためではなく、寺で開かれていた夜学会に出席するためであったことが、別の日の記述からわかります。
 また、文中にある桜井座は旧城郭内にあった芝居小屋で、このときは川上薫一座の新派劇がかかっていました。町内の小屋のみならず、大阪へも芝居見物に出かけており、高田家の男性たちはそれなりに生活を楽しんでいたようです。大阪をはじめ近隣にまで盛んに足を伸ばすことができたのは、目抜き通りの経営的にゆとりがある店だったからこそですが、零細商店や工場労働者・日雇いといった多くの尼崎町民にとっても、芝居はまたとない楽しみのひとつだったことでしょう。  

戻る

祭礼のにぎわい

 当時、尼崎町の人々にとって、祭礼は重要な年中行事でした。なかでも、明治〜昭和戦前期の旧城下で最大の楽しみは、なんといっても惣氏神である貴布禰神社の夏祭りでした。明治42年の日記には、次のように記されています。

 八月十五日 日曜 晴
 本日は貴布禰神社の祭礼なれば朝より店非常に忙はし。午後五時頃太鼓通り、六時頃陸上渡御〔とぎょ〕は通り、尼崎紡績前左門殿〔さもんど〕川辰巳橋北詰より儀式船に乗り移り、先登には各町の有志船が大篝火〔かがりび〕を前後に焚き、船毎に紅提灯を以て飾り鐘・太鼓にてはやし、後には神役船、鳳輦〔ほうれん〕の御船共と音楽に伴いて進み、続きて扈従〔こしょう〕船、殿〔しんがり〕として消防乗込船は曲芸をして進み、川一面には拝観船にて(陰暦六月三十日なり)押詰まり、沿岸は人にて山をなし、さながら天神祭と大同小異なり。

 祭りの中心は、お渡りの神事でした。辰巳町が出す太鼓を先頭に、時代装束の扮装をこらした人々が行列組み、神輿〔しんよ〕とともに貴布禰神社を出発し、旧城下町を東西に横断して辰巳町に至ります。夜になると、中在家〔なかざいけ〕町の九艘の船だんじりを水先案内として、辰巳町から初島・築地町をめぐり、中在家浜から陸に上がって貴布禰神社へと戻りました。なお、「鳳輦〔ほうれん〕」というのは屋形に鳳凰〔ほうおう〕をいただいた御輿〔みこし〕のことを言い、「扈従〔こしょう〕船」とは付き従う船を意味すると思われます。
 この貴布禰神社の祭りのほか、築地町の初島大神宮の例祭や、5月の本興寺大法要時に同寺周辺に立つ植木市といった年中行事が、生活に追われる人々にとって大切な一年の節目となりました。


貴布禰〔きふね〕神社祭礼の船だんじり
(貴布禰神社蔵、明治〜大正初め頃の絵はがきより)

 日記文は、平成2年から4年にかけて、『地域史研究』誌上に翻刻〔ほんこく〕・掲載した「明治末尼崎町商家の青年の日記」より引用しました。引用にあたっては旧かなづかいを現代かなづかいに改め、読みがなをふるなど、読みやすいよう部分的に編集を行ないました。

戻る

魚市場・魚問屋、醤油醸造

 ともに近世尼崎町を代表する産業であった、中在家町の魚市場・魚問屋と大物町の醤油醸造は、近代化とともに盛衰がわかれる結果となりました。近世には広く瀬戸内一帯の魚が集散し、京・大坂へと出荷していた中在家町の魚市場・魚問屋でしたが、明治期には漁船が直接大阪に入港するようになったことや、京阪神への鉄道敷設にともない西の海でとれた魚が直接京都・大阪へと運ばれるようになったことなどから、なおも魚商いは継続していたものの、往時の繁栄は徐々に失われていきました。
 こういった魚市場や魚問屋の衰退傾向の一方で、魚の集散地である尼崎町らしい産業として明治期にむしろ盛んになったのが、かまぼこや天ぷら製造といった水産品加工業でした。ここで言う「天ぷら」というのは、衣を付けて揚げる一般的なものではなく、魚のすり身を油で直接揚げるもので、尼崎名物のひとつです。
 また、大物町や築地町、中在家町などで行なわれていた醤油醸造業は、明治期には同業組合を作って品質向上などに努め、生産を伸ばしていきました。
 生産の中心である大物町においては、大物川沿いに醤油蔵が建ち並んでいました。なかでも代表格である大塚茂十郎本店は、中世あるいは戦国期に起源を持つ伊丹の清酒醸造家で、近世に醤油醸造に転じ、やがて尼崎町に本拠を移したと伝えられる老舗〔しにせ〕でした。同家が生産する「京印醤油」をはじめ、尼崎で作られる醤油はアルコール含有度が高く香味豊かな「生揚〔きあげ〕醤油」として知られ、広く海外にまで流通する尼崎の名産品のひとつとなりました。

 大正5年頃。左手に中在家町の魚市場を望む。手前には底曳〔そこび〕き廻し網である「打瀬〔うたせ〕網」を曳く打瀬船が写っています。(「御大典紀念献上 尼崎市写真帖」より)



 中在家町の活魚〔いけうお〕問屋・直場〔ねば〕商店の、明治末から大正はじめ頃の引札〔ひきふだ〕(宣伝用チラシ)。近世以来、奥田吉右衛門家が経営する同店は、屋号の「直場屋」をそのまま店名としていました。



 大塚茂十郎本店醸造場。円内の人物が当主の大塚茂十郎です。(酒見泉金堂・吉原文栄堂発行、明治42年「尼崎町明細新地図」より)



 明治から大正はじめ頃の大塚茂十郎本店「京印醤油」引札。絵のなかのメダルに「1909」とあります。これが引札の製作年だとすると、明治42年のものということになります。

戻る

『尼崎今昔物語』


『尼崎今昔物語』

 畠田繁太郎著、萬有社発行、昭和12年。46判、本文570頁。昭和39年、ようやまはくいち(陽山泊市)復刻・再版、伊藤靖発行。
 近代初頭の旧尼崎城下はどのような町であり、どういった人々が支え、暮らしていたのか。その様子を具体的に知ることのできるまたとない貴重な記録が、この『尼崎今昔〔こんじゃく〕物語』です。著者の畠田繁太郎は明治2年生まれ。尼崎の小学校教員や大阪府立高等女学校教員といった経歴の持ち主でした。この畠田と、ちょうど県会議員を失職したばかりの阪本勝〔まさる〕の、消え去り忘れられようとしている旧来の尼崎町を記録に残したいという思いが一致して、この本が日の目を見ることになりました。内容は、1「俺〔おいら〕は広小路が好きだ」から始まって、194「尼崎と楠公〔なんこう〕さん」、195「結語」まで、明治期から昭和初期の旧尼崎城下を中心に、人物・名物・風俗・伝承などをいきいきと描き出しています。
 下の写真は、同書の口絵に掲載されたもの。明治32〜3年頃の撮影で、こんな解説が付されています。
「立花楼〔ろう〕酔遊の図 尼崎の名楼立花楼で悪友連メートルをあげつヽあるところ。右から故中馬譲吉、故阪本準平、石田彪氏、故米沢幸造、故中馬興丸、故鈴木勝易、堀内達明氏の諸友。現存者は僅か石田、堀内の両氏のみ」


立花楼酔遊の図(『尼崎今昔物語』より)

 この日は尼崎町の名士である医師たちの集まりだったようです。立花楼というのは、市庭〔いちにわ〕町にあった明治27年創業の料理旅館です。『尼崎今昔物語』が「堺で一力や茅海楼等が知られてゐるやうに、大衆向きではないが、池田に面茂、尼に立花とは通人ならば知らぬ人はない」と記すとおり、百畳敷き以上の大広間に庭園を備えた、尼崎随一の名店として知られました。

戻る