近代編第4節/十五年戦争下の尼崎3/社会運動の激化と退潮(久保在久)

恐慌下の労働者・農民

 昭和2年(1927)の金融恐慌〔きょうこう〕に続いて昭和5年には世界恐慌が波及し、日本経済は未曾有〔みぞう〕の不況に陥〔おちい〕ります。尼崎地域においては、恐慌以前の設備投資と人員整理を通じて経営合理化に成功した財閥系大企業の場合、恐慌の打撃は軽微であり、むしろ収益を伸ばしたほどでした。しかしながら、中小規模の多くの企業は経営危機に陥り、労働者を犠牲にして経営難の乗り切りをはかります。昭和4年12月に久保田鉄工所(尼崎市新城屋西高洲〔たかす〕)で150人、5年5月に富士製紙神崎工場(小田村常光寺)で30〜50人規模の人員整理が行なわれたほか、賃金カット、労働強化が多くの企業で断行されました。
 恐慌の打撃は農村をも襲いました。この時期、阪神間では工業化・宅地化がすすむなか、都市近郊農業の経営縮小・零細化が進行し、さらに第一次大戦後の慢性的不況のもと農産物価格の下落が続いていました。これに加えて、恐慌により農産物価格が大暴落し、しかも昭和5年秋の豊作による供給過剰も災いして、農村の窮乏〔きゅうぼう〕は深刻化しつつありました。
 このようにして、恐慌が人々の生活に深刻な影響を及ぼすなか、尼崎地域においては労働者・農民の運動が激しさを増していきました。そのことを反映して、昭和6年のメーデーには朝鮮人労働者や争議中の武川〔たけかわ〕ゴムの女性労働者を含む工場労働者・農民など約千人が、尼崎市北城内の阪神本社前広場に集まりました。かれらは「解雇賃銀値下絶対反対!」などのスローガンを書いたのぼりを押し立てて、寺町・出屋敷・西本町〔ほんまち〕・築地をデモ行進し、杭瀬の熊野神社で解散しました。メーデーの決議には、労働組合法ならびに小作法、婦人参政権や母子扶助〔ふじょ〕法などの獲得を目指すことが盛り込まれました。



昭和初期における尼崎地域主要企業の労働者数

山崎隆三「昭和恐慌下の尼崎の工業」(『地域史研究』7-3、昭和53年3月)より
原史料は昭和4年・6年「主要工業状況調査原票」(地域研究史料館蔵、旧尼崎市行政文書)

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運動の分裂

 大正7年(1918)の米騒動後、労働者・農民の組織的運動が本格化し、大正デモクラシーは新段階を迎えます。しかしながら、労働運動や農民運動は、当局による弾圧や無産政党の政治的動向の影響を受けて、大正末期以降は離合集散を繰り返すようになっていきます。労働運動においては運動の中心であった日本労働総同盟(略称・総同盟)が穏健な議会主義的傾向を明確化し、大正14年には革命的・共産主義的な左派組合を排除します。除名された左派は日本労働組合評議会(評議会)を結成。その後さらに二度にわたって総同盟から分裂した中間派が、それぞれ大正15年に日本労働組合同盟(組合同盟)、昭和4年には労働組合全国同盟(全国同盟)を結成。この結果、大正15年12月には組合同盟尼崎労働組合、昭和4年11月には全国同盟尼崎連合会が組織されます。
 昭和5年6月には、さらに組合同盟と全国同盟が合同して、中間派の全国労働組合同盟(全労)を結成。全国大衆党(のちに全国労農大衆党となる)を支持し、組織の拡大と労働戦線・無産政党運動の統一を目指しました。同年8月、尼崎において結成された全労阪神地方連合会の組織人員は1,700人を超え、総同盟尼崎連合会に匹敵する勢力となりました。
 一方、左派の労働運動は、共産党への弾圧や、政府命令による評議会の解散(昭和3年4月)によって打撃を受けながらも、日本労働組合全国協議会(全協)を結成して活動を続けました。尼崎では昭和4年6月頃、摂陽合同労働組合が結成され全協へ加盟し、やがて全協阪神地区支部へと発展していきます。また昭和5年に合法左翼組合として日本労働組合総評議会(総評)が結成されると、その傘下の組合組織も作られました。
 こうしたなか、昭和6年に満州〔まんしゅう〕事変が勃発すると、総同盟を支持母体とする社会民衆党(社民党)がこれを支持するなど、排外主義・右傾化の方向性を明確にしていきます。議会主義と労使協調を標榜〔ひょうぼう〕しつつ右傾化していく総同盟に対して中間派の全労と合法左翼の総評が対抗し、さらに全協がこれらを批判して止まないという、日本労働運動の分裂と対立を反映する構図が尼崎においても見られました。
 農民運動においては、大正11年4月に農民の全国組織として日本農民組合(日農)が設立されました。尼崎市内各地で小作争議が頻発〔ひんぱつ〕するなか、大正14年3月には東難波〔なにわ〕支部(のちに尼崎支部と改称)が発足。昭和3年、日農は一時分裂していた全日本農民組合(全日農)と合同して全国農民組合(全農)を結成し、大西・東富松〔とまつ〕・塚口などに支部を置きました。しかしながら昭和6年3月、全農第4回大会が無産政党の支持をめぐって紛糾し大会は解散を命じられます。4月に拡大中央委員会を開いた全農は合法無産政党統一に向けた運動方針を確認。これを不服とする者は同委員会を退席し、戦闘的農民運動を声明して全農改革労農政党支持強制反対全国会議(全会派)を組織します。
 阪神地方の農民運動は、この全農全会派の指導下に入り、昭和6年11月には奥田末治〔すえじ〕らが武庫村に全農生津〔なまづ〕支部を結成。これ以後、全会派が阪神間の農民運動に対して指導力を発揮していくことになりました。

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尼崎におけるおもな労働組合組織の変遷



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労働争議の続発

 恐慌期の尼崎地域では、労働争議が続発しました。その多くは、企業による恐慌切り抜け策への対抗であり、労働側の防衛的性格が濃い点に特徴がありました。資本の攻勢に対して、分裂状態にあって弱体化した労働組合は争議を有効に指導できず、活動家のなかには過激な行動に走る者も現れました。
 なかでももっとも激烈だったのが、昭和6年3月に始まった武川〔たけかわ〕ゴム(尼崎市竹谷〔たけや〕新田)の賃金引き下げ反対争議でした。4月1日に交渉が決裂。争議団は全労阪神地方連合会の支援を受け、長期戦に備えて市内の寺院などに籠城〔ろうじょう〕して闘いをすすめました。さらに争議中に全協日本化学労組分会も結成され、争議はますます過激化・先鋭化していきます。進展しない交渉に業〔ごう〕を煮やした争議団が、武川ゴムの社長に硫酸を浴びせかけるという、衝撃的な戦術を行使する一幕もありました。このような過激な戦術を用いた背景には、争議資金も乏しいなか、完全敗北を避けるために警察を挑発して調停に持ち込む狙いがあったと、争議団長の福島玄〔はかる〕(通称「げん」)は後年述懐しています。


武川〔たけかわ〕ゴム争議ニュースNo.4(法政大学大原社会問題研究所蔵)
 全労阪神地方連合会武川ゴム争議団本部が昭和6年3月12日付で発行。「全国戦闘的労働者諸君、飢と孤立の中に戦ふ四〇〇名の兄妹を救へ」などといった、激しい言葉が並んでいます。

 昭和7年2月に始まる日本エレベーター(小田村潮江)の争議では全労と総評の共闘が成立し、賃上げ獲得に成功しましたが、幹部が解雇されたため3月から闘争に入り、警察の弾圧を避けて全員が姿をくらます戦術もとられました。これより先、昭和6年12月に起こった富士製紙神崎工場の解雇撤回争議と南隣の東洋紡績神崎工場の賃下げ反対争議では、両争議の応援に来ていた若者が東洋紡の煙突に登って世間へのアピール効果を狙うという、奇抜な戦術も行使されていました。この日本エレベーター争議でも、大阪医科大学病院の煙突に総評系活動家が登って話題になりました。
 この間、総同盟尼崎連合会は、昭和5年6月灘連合会などとともに兵庫県連合会の結成にこぎつけ、傘下の有力組合であった尼崎木管工組合による6年6月の日本木管争議など多くの争議を指導したほか、8年10月には労働会館即時建設、理髪料金値下げなどといった要求運動も展開。さらにこの時期、総同盟と支持協力関係にあった社会民衆党の伊達〔だて〕徳次郎らによる、摂津借地借家人組合も結成されています。
 一方、左派の全協は、総同盟や全労などの幹部を「ダラ幹」(=階級的に堕落した幹部)と批判し、活動家の西村好成〔よしなり〕らが武川ゴムや尼崎製釘〔せいてい〕、日本スピンドル、乾〔いぬい〕鉄線などの工場において支持者を獲得します。しかしながら非合法活動を余儀なくされ、大きな影響力を及ぼすことはできず、相次ぐ弾圧によって共産党員やその支持者のほとんどが検挙されていきました。昭和3年の三・一五〔さん・いちご〕事件(共産党員全国一斉検挙)により有罪となった春日庄次郎は、出獄後の昭和12年12月、杭瀬で飲食店を経営していた島袋友市らの協力を得て日本共産主義者団を結成。党の再建を目指しますが、昭和13年9月から翌年春にかけて関係者が検挙され組織が消滅します。島袋をはじめ、沖縄出身者が運動に加わっていた点に特徴がありました。

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左派に導かれた農民運動

 全農生津支部を設立した奥田末治は全協の活動家でもあり、在日朝鮮人の組織である阪神消費組合と連携する場面もありました。支部は昭和6年9月以降と、昭和8年12月以降の二度にわたる小作料減免闘争で成果を勝ち取りました。
 この時期の阪神間農村では宅地化・工場用地化がすすみ、それにともなう小作地取り上げがさかんに行なわれていました。このため従来の小作料減免闘争に加えて、土地取り上げ反対闘争が広く闘われることになります。たとえば昭和8年、9年には園田村の森・上坂部〔かみさかべ〕および立花村の塚口で、阪急電鉄による開発のために地主が小作人から耕作地を取り上げるという事態が相次ぎ、いずれも小作争議が発生しています。
 また大庄〔おおしょう〕村では、昭和9年の室戸台風後の土地区画整理にともない、土地返還を求める地主および村当局と、全農全会派の支持を受けた道意〔どい〕新田・中浜新田の農民との間で、離作料の交渉が昭和10年4月頃から行なわれていました。地主側が人夫を動員して小作地埋め立てを強行し、これを阻止しようとする小作人との間に流血の大乱闘が発生するなど事態が緊迫するなか、昭和12年3月には反当たり230円の離作料支払いを条件に妥結しています。園田村などの事例と比較すると、小作人にとってかなり好条件でした。


昭和12年4月、大庄〔おおしょう〕村道意〔どい〕新田における小作争議の解決を祝して素盞嗚〔すさのお〕神社に詣でた全農組合員(羽原正一氏所蔵写真)


阪神間で闘われた農民運動のポスター・ビラ類 (羽原正一氏所蔵史料)

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戦時体制と社会運動

 戦争の激化と弾圧の強化により社会運動が次第に後退するなか、尼崎地域では総同盟系の久保田鉄工所、日本木管というふたつの組合が、昭和15年7月の総同盟の自主的解散まで組織を維持しました。右派労働運動の指導者のひとりであった山下栄二は、活動が長く続いた理由として、両組合ともほぼ工場の全従業員を組織していた事実を指摘し、さらに「久保田の場合、組合費は労働協約によって給与から会社が天引きしてくれていたので、財政的に安定していた」と述べています(『戦前尼崎の労農運動』)。これらの組合は、こういった戦前の組合活動の経験を活かして、戦後に再建される労働運動のリーダー的役割を果たしていくことになります。
 阪神間の都市近郊農村における離作料争議で不敗を誇り、農民の支持を集めていた全農県連幹部の長尾有〔たもつ〕・羽原正一〔はばらしょういち〕らにとっても、日中全面戦争開始後の情勢は厳しいものでした。昭和13年、全農県連は兵庫県農民連盟へと改組し、国粋主義団体である東方会傘下の日本農民連盟に加盟して、合法的形態のもと農民の日常的利益擁護の運動を継続していきます。戦時体制が厳しさを増すなか、戦闘的農民運動の担い手たちは、戦争推進勢力のもとで不本意な妥協を強いられながらも、運動を継続させる道を選んだのでした。

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『戦前尼崎の労農運動

 尼崎労農旧友会発行、昭和54年1月。B6判152ページ。表紙には日本労働総同盟機関誌『労働』の表紙を、裏表紙には日本農民組合機関誌『土地と自由』のタイトルバックを掲載しています。
 地域研究史料館では、戦前に尼崎で労働運動・農民運動を闘った人々から聞き取り調査を行ない、紀要 『地域史研究』誌上に内容を公表してきました。調査は昭和48年から53年にかけて継続的に実施され、合計7人の方の証言を掲載しました。
 ところが西村好成〔よしなり〕氏をはじめとする証言者の方々が互いの回想を読み返すと、不十分な点が見つかり、補 筆や訂正の必要が生まれました。西村氏らはこの機会に「尼崎労農旧友会」を作り、証言を一冊にまとめた本の刊行を計画します。回想文は、当時の史料館長であった小野寺逸也氏による編集を経て刊行されました。
 本書には、文字に残りにくい運動家の生い立ちや個人的な思想が語られており、戦前労農運動のみならず、当時の社会を知るうえでも貴重な文献となっています。


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