近代編第3節/工業都市尼崎の形成5コラム/大正デモクラシー期の教育(末方鐵郎)
大正期における教育施設の整備・拡充
工業化や民主主義の流れのなか、時代に応じた教育制度の整備を行なうべく、政府は大正6年(1917)に「臨時教育会議」を設けて調査検討を行ない、中等・高等教育の拡充などの教育改革を実施していきます。
尼崎町・市や周辺地域においても、大正期には学校教育施設の整備・拡充がすすめられます。本節3でふれたように、学齢児童数が増加し教室・教員が不足したため小学校の増改築がすすめられ、さらには町立実科高等女学校(大正2年設立、大正8年に市立高等女学校となる)、市立尼崎中学校(大正12年開校)といった中等教育機関も設置されました。また、大正15年4月に文部省が幼稚園令を公布したこともあって、現尼崎市域においてもそれまで明治23年(1890)設立の私立博愛幼稚園(旧城郭〔じょうかく〕内)のみであったものが、大正14年に小田村杭瀬に小田幼稚園、15年には大庄村西の源光寺に松寿幼稚園(武庫川幼稚園)、立花村塚口に塚口ときは幼稚園、昭和2年には尼崎市東難波〔なにわ〕に難波幼稚園、同竹谷〔たけや〕新田に正義幼稚園、小田村金楽寺に隣愛幼稚園と、いずれも私立の幼稚園が開設されていきました。
塚口住宅地における学校園開設
大正9年、阪急神戸線開通と同時に塚口駅が設けられ、駅周辺の住宅地開発が始まります。当初開発をすすめたのは阪急電鉄ではなく、塚口土地株式会社という別の会社でした。
新たな住民が増えれば、当然教育需要も高まります。こうしたなか、文教地区としての価値を高めようという経営戦略を意図したものか、塚口土地は立花村東富松〔とまつ〕の経営地内に校地を用意して、大阪市内にあったキリスト教系の私立中外〔ちゅうがい〕商業学校を誘致します。誘いに応じた中外商業は、大正14年12月に移転してきました。なお塚口土地とともに、阪急の経営者である小林一三〔いちぞう〕も、移転に際して寄付を行なっています。
この中外商業がのちに市に移管されて、現県立尼崎北高等学校となりました。
中外商業が塚口住宅地にやってきた翌月である大正15年1月、塚口駅の北側に開設されたのが、私立塚口ときは幼稚園でした。創設者で初代園長を務めた三嶋闊郎〔かつろう〕はクリスチャンで、園には外国人女性の先生も迎え入れ、土曜学校の開催などキリスト教精神を取り入れた幼児教育を行なっていました。塚口ときは幼稚園には、新しい住宅地の子女をはじめ、近隣の多くの幼児たちが通い、巣立っていきました。
初期の塚口住宅地に、幼稚園と商業学校という、いずれもキリスト教精神に沿ったふたつの私立学校園があったというのも、興味深いことですね。
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自由主義・民主主義思潮と新教育運動
政府による教育制度改革の一方で、大正デモクラシー期には自由主義・民主主義や人文主義的思潮を背景に、児童尊重の世界的な新教育思想に沿った「新教育運動」も活発
に展開されました。この運動は、たとえば作文教育においては綴〔つづ〕り方〔かた〕や自由詩・童謡などを重視して取り上げ、絵画教育においては自由画を提唱するなど、児童教育の世界に新風を巻き起こしました。
尼崎地域においても、大正6年に文部省嘱託として「尋常小学国語読本」を編集した芦田恵之助〔えのすけ〕を、官民の教育関係者による有志団体「尼崎市教育会」が大正7年に招いて講習会を行なうなど、新教育運動の考え方を取り入れようという試みがなされていました。芦田が提唱したのは、児童に自由に作文の題材を選ばせ記述させる自由選題主義であり、綴り方運動の先駆をなすものでした。市教育会に招かれ、いく度か尼崎地域を訪れた芦田は、市内や周辺地域の学校を訪問して授業を参観し、指導助言を行なっています。
このほか現市域の各小学校においては、大正期に各地で生まれた個性的な教育実践に学び、その成果を授業に取り入れる事例が見られました。たとえば園田第二尋常高等小学校の場合、昭和初年当時新教育運動の最先進校であった奈良高等女子師範学校附属小学校の、木下竹次が提唱した「合科教授」を、学校と地域が連携して積極的に取り入れていました。合科教授(合科学習)というのはドイツに始まった教育方法で、教科の枠を越えて児童の興味関心や生活体験などから知識・技能を総合的に学ばせるという、いわば今日の総合的学習の元祖とも言うべき教育実践でした。
このように、大正期には尼崎地域においても、児童自身の自発性を重視した新たな教育方法の実践が、さまざまに取り組まれ始めていました。次に紹介する当時の小学校4年生の作文からも、そんな大正期の教育の姿を読み取ることができます。
大正期の小学生の作文から
大正10年。このとき9歳で、尼崎第三尋常小学校(のちの開明小学校)4年生であった上村秀男少年は、綴〔つづ〕り方〔かた〕で書いたこんな作文を、日記に書き写しました。
「すて犬」
五六日前の事である。
村の親類の家へ使ひに行って面白く口笛を吹きながら家へ帰へって来た。すると足もとでクンクンといふ小犬の声がするので不思議に思って下を見ると黒いかはいらしい犬が一匹足もとにぢゃれついてゐる。
もとより犬の好きな僕はかはいらしい犬だと思ってその小犬を抱きあげた。黒い小犬は小さい舌を出してぺろぺろと僕の顔をなめてうれしそうにしてゐる。
(後略、上村秀男著・上村武男編『大正の小さな日記帳から』より、編集工房ノア発行、平成12年)
こころみに、明治半ば頃の、同学年の児童による作文を紹介してみましょう。
「夜 半」
夜将に二更、細雨蕭々、点滴瀝々として声あり一種の灯火豆の如きの辺友人数輩相集まり過去を語り現在を断ず情味油然閑愁雨の如し此時に当たりてや一点の邪念一抹の俗塵なし
和歌山賀那毛原四年 梅北光造
(明治23年創刊『少国民』より、学齢社発行)
明治期の作文は成人の文章をまねさせ、型にはまった漢語表現を指導し書かせている様子がわかります。
一方、大正期の作文は、実際に子どもが経験したことや、素直な気持ちをありのままに表現したいきいきとしたものとなっており、両者を見比べると、それぞれの時代の作文教育がめざしたものの違いがよく表れていると言えるでしょう。
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