近代編第4節/十五年戦争下の尼崎8コラム/銃後、疎開、空襲−尼崎市民の戦争体験−(羽間美智子)
〔羽間〔はま〕美智子さんの手記より〕
戦時下、尼崎市民はどのような日々を送ったのでしょうか。国民学校児童として疎開〔そかい〕や空襲を体験された郷土史家の羽間美智子さんに、当時の様子を綴〔つづ〕っていただきました。
出征風景
昭和12年(1937)7月に日中戦争が始まり、翌13年には国家総動員法公布。経済・生活のすべてが統制されることになりました。この頃市内の家や神社の前で、召集令状(赤紙)が来て入隊する人が一段高い台に立ち、日の丸や「武運長久」「○○君」などと書いた幟〔のぼり〕を立てて、親族や知人が万歳をして送り出す光景をよく見ました。後に当時の『尼崎市公報』を見て知ったのですが、英霊(戦死者)を迎える記事が年を追うごとに増えています。
駅や市場の入り口などで、通りがかりの女性に千人針を頼む人も多く見かけました。腹巻きほどの幅と長さの晒〔さらし〕に、千人の女性に一針ずつ赤い糸で結び玉を縫い付けてもらい、出征者に持たせるのです。武運よりも、無事を祈る気持ちからだったと思います。
空襲に備えて
尼崎の防空演習は昭和11年から始まり、16年12月の対英米開戦以降強化されました。高い所に吊したルーズベルト大統領やチャーチル首相の顔を標的にして、バケツリレーで水をかけたり、縄や縒〔よ〕った古布で作った大きなハタキで火をたたき消すことが主でした。18年か19年頃には、竹槍で藁〔わら〕人形を突き刺す訓練もしていました。男性は国防服乙号で足に巻脚絆〔まきぎゃはん〕(ゲートル)、女性はもんぺ姿がほとんどでした。入り口に防火用水、窓に暗幕は各家庭必置で、電球には光がもれないよう覆いをかぶせました。戸外では厚く綿を入れた肩まで覆う防空頭巾〔ずきん〕を携帯し、白は上空から目立つので黒っぽい服装をするよう言われていました。爆弾が投下されたときに、耳と鼻を押さえて体を伏せ、爆風から身を護る訓練もしました。
また、家庭や隣保〔りんぽ〕で地面を掘り、坑道のように木を組んで、上に厚く土を盛って防空壕を造り、空襲時の待避に備えました。しかし実際の空襲の破壊力の前には、設備も演習も役に立たず、ただ逃げまどうだけでした。
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集団疎開
小学校が国民学校となった昭和16年、私は長洲〔ながす〕国民学校の1年生になりました。12月8日に太平洋戦争が始まり、翌年2月シンガポールのイギリス軍が降伏したとき、朝登校すると黒板に「シンガポール陥落」と大きく書いてあったのを思い出します。
戦争が激化し、日本の敗退が続くなか、やがて学童疎開が始まりました。昭和19年8月28日、私たち長洲国民学校の4年生と6年生は、親に見送られて国鉄金楽寺駅から汽車に乗りました。川西池田駅から能勢電車に乗り継いで山下駅(東谷村、現川西市)で降り、4km歩いて中谷〔なかたに〕村(現猪名川町)に着き、男女2か寺ずつに分宿しました。疎開生活の始まりです。
学校は、中谷国民学校の講堂の南半分を借りて、長洲国民学校の分校という形をとり、村の子と一緒に勉強したり遊んだりすることはありませんでした。宿舎はお寺の庫裏〔くり〕で、食事も遊びも就寝もそこでしました。狭いので、ひとつの布団にふたりずつ寝ていました。
食事は各寺で炊事婦さんが調理しました。仕切りのついた白い丸い皿にご飯とおかずを盛り、浅い木の椀に汁物を入れ、盛り切りでおかわりはありません。昼食には弁当を持って登校しました。はじめは煎り豆・柿・栗などのおやつもありましたが、秋頃から次第にご飯もおかずも量が少なくなり、冬には刻んだたくあんと鰹田麩〔かつおでんぶ〕(鰹肉を乾燥調味した加工品)をふりかけたご飯に、汁だけという日が続いたこともあります。
昭和20年の春頃、先生が出征して一時先生不在になった寺で「尼崎に帰ればここより食い物があるだろう」と、病気の子を残して男の子全員が脱走したことがありました。夜通し歩いて尼崎に着き、翌日連れ戻されました。空腹から胃腸薬の「わかもと」を食べたり、歯磨き粉や赤い絵の具をなめる者もありました。
その頃から食事は一層減って、朝夕は汁椀八分目ほどの、こうりゃんなどの入った固粥〔かたがゆ〕でした。弁当はご飯でしたが、副食とあわせて弁当箱の半分ほどにしかなりません。それで授業をせずにイナゴを捕り、川原や山で野蒜〔のびる〕や蕨〔わらび〕、ぜんまいなどを採って食べました。
シラミにも困りました。頭に黒いシラミ、服には白いシラミが増え、寺の五右衛門風呂に衣類を入れて煮たり頭に酢を塗ってもいっこうに減りません。終戦後家に戻って、まっ先にしたのはシラミ退治でした。
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6月15日の空襲
この日の朝、警戒警報(「尼崎消防沿革誌」によれば午前7時54分)のサイレンが鳴ったので、隣保の女性と子供は、家の裏の空き地に造った防空壕に待避しました。隣保の4、5人の男性は、国道などで警戒にあたっていました。この頃、疎開先で体調をくずした私は、杭瀬字壱ノ坪(現杭瀬南新町4丁目)の自宅に一時戻っていたのです。
まもなく飛行機の爆音とシュルシュルという音がして、父が外から「ここはあぶない。陸橋の下へ逃げて行け」と叫んだので、全員防空頭巾をかぶり、西の方角の、国鉄尼崎港線にかかる大物〔だいもつ〕陸橋へと逃げました。
陸橋のガード下は満員でした。まもなく「シャーッ」という音がして、南側の視界が焼夷弾〔しょういだん〕の雨でねずみ色になりました。たちまち付近の家が燃え出し煙が流れ込んできたのでガード下を出て、阪神国道の北側を西へ逃げました。まだ午前9時頃でしたが煙で夜のように暗く、黒い雨が降ってきました。
ひとりの人が家の方の様子を見に戻って、「うちの方は燃えてへん、無事や」と知らせてくれました。尼港線から東は、国道の両側が燃えている様子なので、陸橋の上を通って帰りました。陸橋から南を見ると、大物の方が盛んに燃えていて、一瞬影絵のように浮かび上がった家が、見る間に炎のなかに崩れていきました。
家に戻った頃には雨はやんでいて、裏口を開けて外に出ると、薄墨色の空にだいだい色の太陽がくっきり浮かんでいました。隣保の人が集まり「よかった、よかった」と言い合って、泣き出すも人もいました。
終戦の日
空襲ののち、私はふたたび中谷村に戻りました。8月15日は臨時休校で寺にいました。玉音〔ぎょくおん〕放送は聞きませんでした。「終戦」と聞いても悲しさはなく、むしろ「これで家に帰れる」と喜びました。その日の夕方だったか、一緒に疎開していたHさんのお母さんが尼崎から駆けつけて来て、「戦争は一時休みや」と庭先で立ったまま言われた姿を思い出します。
私たちが前の日に枯れ田で拾った田螺〔たにし〕と枝豆を煮ておかずにした弁当と、みやげのさつま芋を持って中谷村を後にしたのは、11月6日のことでした。
〔参考文献〕
羽間美智子「第二次大戦下の尼崎のくらし」T〜W(尼崎郷土史研究会『みちしるべ』第29〜32号−平成13年3月〜16年3月−掲載)