近代編第4節/十五年戦争下の尼崎2/満州事変と準戦時体制(佐賀朝)
満州事変と「国防」
前年から始まった昭和恐慌〔きょうこう〕の影響が深刻さを増すなか、昭和6年(1931)9月18日、中国奉天〔ほうてん・フェンティエン〕(現瀋陽〔しんよう・シェンヤン〕)郊外の柳条湖〔りゅうじょうこ・リウティアオフ〕において、南満州〔まんしゅう〕鉄道(満鉄)線路の爆破事件が起こりました。満鉄とその付属地警備を担当する関東軍の謀略によるものでしたが、関東軍はこれを中国側の仕業として中国東北部(満州)全体にわたる武力侵略を開始します。これが「満州事変」です。
満州事変が起きると、大新聞などはこれを扇情〔せんじょう〕的に報じ、戦争を支持する排外主義的な気分が国内に大きく広がりました。出征兵士の歓送迎や慰問も盛んに行なわれ、陸軍はこれを総力戦体制構築のために「国防思想」を普及させる絶好の機会ととらえ、行政やさまざまな団体と協力して、戦争支持熱を意識的に盛り上げようとしていきます。こうして地域社会においても、日常的に「国防」が叫ばれる時代が到来しました。
事変後、尼崎地域では昭和6年11月頃から、出征兵士の武運長久祈願祭や在満部隊への慰問袋送付、国防献金などの活動が本格化し、新聞社によるニュース映画会なども開催されました。翌7年9月には、兵庫県満蒙〔まんもう〕事変犒軍〔こうぐん〕会(犒軍=軍をねぎらうこと)の尼崎市部会が結成され、戦地への慰問袋発送や出征軍人遺家族援護、軍への献金・武器献納活動などに地域住民を動員。「国防」への市民の組織化をはかっていきます。
準戦時体制へ
満州事変を機に中国東北部への侵略が本格化し、国防が叫ばれるようになった時期は、来たるべき総力戦にそなえて「準戦時体制」がしかれ、同時に急速に景気が回復していく時代でもありました。
恐慌からの景気回復過程を牽引〔けんいん〕した要因は、第一に、政友会・犬養毅〔いぬかいつよし〕内閣が昭和6年12月に金輸出を再禁止し管理通貨制度のもと財政膨張〔ぼうちょう〕政策を採用、これにより軍需〔ぐんじゅ〕が増大したことです。第二に、再禁止による円安のもと、輸出および国内における外国製品との競争上日本企業が有利になったことです。第三に、不況期に弱体企業の倒産が相次ぎ人員整理や設備更新がすすんだことで、合理化を達成した企業ではコスト削減により生産効率が上昇したことが指摘できます。
こうした要因を背景に、日本経済は世界に先行して景気回復の道を歩み始めます。その流れは尼崎地域においても同様であり、昭和恐慌の影響で昭和5〜6年に落ち込んだ尼崎市の工業生産額は7年から上昇に転じ、8〜9年には4年の水準に回復、その後は増大を続けます。昭和11年に尼崎市と合併する小田村の工業生産額も、ほぼ同様の傾向をたどりました。こういった準戦時体制下における尼崎地域の工業の特徴は、@鉄鋼業の発展、A大庄〔おおしょう〕村への大工場進出、B臨海部への火力発電所の集中立地、などに集約できます。
鉄鋼企業進出と大庄村の工業地帯化
軍需増大と円安による輸入鉄鋼価格高騰〔こうとう〕に助けられて、鉄鋼生産はこの時期大きく増大します。尼崎市新城屋新田に立地する住友伸銅鋼管(昭和10年に住友製鋼所と合併して住友金属工業となる)の場合、人員整理と設備更新によって昭和恐慌期を乗り切り、準戦時体制期に入ると海軍の発注増や、船舶・火力発電・各種機械製造などの民需に支えられ受注が拡大。これに応じてさらに設備拡充・工場新設をすすめ、生産高を激増させました。
また、新たな企業の創設や工場進出も相次ぎました。大庄村中浜新田には、昭和7年に尼崎製鋼所が設立され、同年大阪製鈑〔せいはん〕も進出(11年本社を尼崎に移転)、9年には日本亜鉛鍍〔あえんと〕(14年日亜製鋼となる)が帯鋼工場を新設します。同じ9年には尼崎市西高洲〔たかす〕に東京ロール製作所尼崎工場が開設(15年大谷重工業となる)、さらに12年には尼崎製鋼所と久保田鉄工所の折半出資による尼崎製鉄所が創設され、大庄村又兵衛新田に工場を新設しています。大正期に尼崎市初島に進出した中山製鋼所尼崎工場や、昭和6年に尼崎市東向島から小田村杭瀬に移転した尼崎工業所(昭和9年富永鋼業となる、16年大同製鋼に合併)なども加えて、尼崎地域臨海部は一大鉄鋼生産地帯となりました。
鉄鋼業分野に顕著に表れているように、大庄村に重化学工業の大工場進出が続いたことが、この時期の第二の特徴でした。多くが中浜新田など尼崎築港(株)による埋め立て地に建設され、これを反映して大庄村の工業生産額は昭和8年の約700万円から翌9年には1,200万円、11年には6,400万円、12年には1億1,000円へと激増しています。
火力発電所の集中
鉄鋼企業進出と同時に火力発電所の集中がすすんだことが、この時期の第三の特徴です。すでに大正10年(1921)には尼崎市東浜新田に阪神電鉄東浜発電所が開設され、14年には隣接して日本電力尼崎火力発電所が設置されます。さらに昭和6年、関西の4電力会社共同出資による関西共同火力発電が設立されると、昭和11年、同社は大庄村地先の尼崎築港埋め立て地(末広町)に尼崎第一発電所を完成させ、さらに隣接して第二発電所を建設します。
その第二発電所が操業を開始した昭和12年には日中全面戦争が始まり、国家による産業統制がすすめられるなか、電力産業の分野においては昭和14年、電力国家管理政策を実現するため国策会社・日本発送電が設立されます。尼崎臨海部の4発電所も同社の管理下に入り、その発電量合計は61万2,600キロワット、全国の火力発電所総出力の31%に及びました。
こうして尼崎地域は鉄鋼業と火力発電所が集中立地する、重化学工業に特化した工業地帯としての地位を確立させます。
日本電力尼崎火力発電所
大正14年、尼崎市東浜新田に開設。拡張工事により昭和3年9月には全出力14万キロワットとなり、当時東洋一の規模を誇りました。昭和14年に日本発送電が設立されると同社の尼崎東発電所となり、戦後は関西電力に引き継がれ、平成14年に廃止されました。
(いずれも大正末〜昭和戦前期の絵はがきより)
戻る多様な産業公害の発生
重化学工業化がすすむなか、公害問題が激化したのも、昭和恐慌から準戦時体制期にかけての時代の特徴のひとつでした。ことに臨海部の発電所などが排出する降下煤塵〔ばいじん〕や二酸化硫黄(亜硫酸ガス)による煤煙被害がひどく、これを問題視した尼崎市会は昭和11年8月、「煤煙防止河川浄化委員会」を設置します。同委員会は、地域の区を単位とする衛生組合の連合会とともに12年2月以降、臨海部の発電所に対して煤塵除去装置を設置するよう繰り返し交渉し、汽鑵〔きかん〕(ボイラー)の一部に除塵装置を設置するという約束をとりつけますが、同じ12年の日中戦争開始とともに戦時生産体制が強化され電力需要も増大。フル稼働状態となった発電所が排出する煤塵も増加の一途をたどります。煤煙防止河川浄化委員会は国・県への陳情などを繰り返しますが、結局昭和16年になってようやく東発電所(旧日本電力尼崎火力発電所)と第一発電所のボイラーの一部に除塵装置が設置されたのみで、それ以上の対策が取られることはありませんでした。
昭和10年頃には、地盤沈下問題も顕在化します。臨海部では毎年数センチ規模で地盤が沈下しており、これによりゼロメートル地帯が広がったことが、昭和9年の室戸台風など連年の台風による高潮被害の一因となりました。市会でも対策が議論されますが、この当時は沈下の原因が工場の地下水汲〔く〕み上げにあるとは特定されておらず、取られた対策も不十分でした。
このほか工場排水による庄下〔しょうげ〕川や神崎川の汚染も深刻化していきます。これら各種の公害問題は、自治体や住民の努力にもかかわらず十分な解決を見ないまま、課題は戦後に持ち越されることになりました。