近代編第1節/尼崎の明治維新6/運輸・通信網の整備(山崎隆三・地域研究史料館)
郵便
国営・全国均一料金・郵便切手による前納制からなる近代的郵便制度は、1840年の英国に始まり世界各国に普及していきました。明治維新政府も近代化施策の一貫として、明治4年(1871)に国内郵便網の整備に着手し、翌5年7月には早くもほぼ全国に郵便路線が広がります。大阪から長崎に至る路線が開設された明治4年12月5日、中国街道の宿駅であった尼崎には、西宮・伊丹・兵庫・明石などとともに郵便取扱所が設置されました。「尼ヶ崎郵便取扱所」は、同月中に早くも切手売り下げ高5,973文、脚夫賃ほか1,765文、差し立て取扱数54度、配達取扱数51度という実績を記録しています。
各取扱所の郵便業務を担当する「郵便継立方〔つぎたてかた〕」には、大商人や地主、町役人など地域の有力者が任命されました。尼崎では藩の駅逓所〔えきていしょ〕役人であった渡辺治平が選ばれており、取扱所(仮役所)は旧城下宮町の同人宅に置かれたと考えられます。渡辺は10人扶持の侍身分の者として「尼崎藩中姓名録扣〔ひかえ〕」(年不詳、尼崎市教委所蔵文書)に名を連ねていますが、秩禄〔ちつろく〕処分(本節2参照)の際には士族として禄を給されていないことから、世襲の藩士ではなく飛脚業などに携わる商人であったのではないかと考えられます。郵便継立方を務めるかたわら、旧城下の商人ら十数人とともに明治6年から7年にかけて大阪陸運会社(のちに大阪陸運元会社と改称)に入社し、尼崎陸運会社を設立しています。尼崎における大阪陸運会社の業務取り次ぎや、独自の運輸業務を展開したものと思われます。
大阪陸運会社は、政府の指導のもと東京の定飛脚仲間が明治5年6月に設立した陸運元会社の支社として、同年9月に大阪の飛脚問屋が設立した会社です。宿駅制度廃止後の運輸事業は、これら陸運元会社傘下の飛脚業者らが担いました。郵便事業の官営化により飛脚業者が親書〔しんしょ〕を扱うことは禁止されますが、政府(駅逓寮)から各郵便局への配達賃・切手の伝送や、切手代金集金・運送等を飛脚業者に委託することで、旧来の業者への経済的打撃を緩和する方策がとられました。
尼崎においては、郵便事業と陸運業務の両方をたばねる渡辺治平を中心に、旧城下の飛脚業者たちが引き続き明治初期の運輸通信を担ったものと考えられます。なお明治6年4月、「尼ヶ崎郵便取扱所」は「尼ヶ崎四等郵便役所」と改称し、明治8年1月1日には尼崎郵便局(5等局)となりました。
電信
阪神間に最初の電信線が架設された時期は郵便事業開始より早く、明治3年8月にまでさかのぼります。明治4年に大阪・神戸間の官設鉄道建設が始まると、線路沿いにあらためて電信線工事が行なわれており、人足を出した沿線村々に対して人足賃が支払われています。こうして設置された電信線を実際に利用したのは、主として軍や政府・府県、鉄道当局などでした。明治16年9月に神崎停車場の電信分局が開局されて、ようやく尼崎地域からも電信を打つことができるようになり、民間の利用も可能になったものと思われます。明治26年2月21日には尼崎郵便局が郵便電信局となり、電信取り扱いを開始しています。
戻る官設鉄道の敷設
東京・横浜間に次ぐ日本で2番目の鉄道路線として、明治7年5月11日、大阪・神戸間に官設鉄道が開通しました。この路線は両都市間を最短時間・距離で結ぶことを主目的としており、人口の多い尼崎旧城下の市街地ではなく、北に数キロはなれた農村地帯を通過していました。また、当初は中間駅設置が西宮と三宮の2か所の予定でしたが、工事進行中の明治6年11月に神崎・住吉両ステーションの追加が決定されます。神崎ステーションの設置場所は幾度か変更ののち、東長洲〔ながす〕村・中長洲村・潮江村にまたがる区域に決まり、鉄道開通の翌6月1日に開設されました。同駅はその後神崎停車場、神崎駅と改称。これが現JR尼崎駅の前身にあたります。
開通当初は大阪・神戸間32.7qを1時間10分で結ぶ汽車が1日8往復し、運賃は上等1円、中等70銭、下等40銭と、当時米1升が約5銭という物価水準から考えるとかなり高額でした。開業3か月後の8月には1日10往復に増発され、上等は運賃据え置き、中等は60銭、下等は30銭とそれぞれ10銭ずつ値下げされました。神崎ステーションから大阪までは所要時間14分、8月改定以降の運賃は上等25銭、中等15銭、下等8銭でした。
開通当時の神崎あたりの様子を、大和田建樹作詞の「鉄道唱歌」第1集は次のように描写しています。
60番 大阪いでて右左 菜種ならざる畑もなし 神崎川のながれのみ 浅黄〔あさぎ〕にゆくぞ美しき
61番 神崎よりはのりかへて ゆあみにのぼる有馬山 池田伊丹と名にききし 酒の産地をとほるなり