近代編第4節/十五年戦争下の尼崎2コラム/尼崎の国防婦人会(佐賀朝)
国防婦人会の結成
満州〔まんしゅう〕事変後、関西を中心に急速に勢力を拡大したのが、大日本国防婦人会という組織でした。大阪港から出征する兵士を湯茶でもてなし、「日の丸」を振って送る活動を行なっていた大阪市港区市岡〔いちおか〕の主婦たちを中心に組織され、やがて陸軍の後押しを得て急速に支部を増やしていきます。かっぽう着に白タスキというスタイルで、主婦が台所から街頭へ飛び出し軍に奉仕するという姿を前面に押し出し、上流階級の婦人たちによる愛国婦人会などに対して庶民性を特徴としていました。そのことが多くの女性に歓迎され、会員拡大につながったと言われます。
昭和7年(1932)3月、大阪において国防婦人会が結成されます。同年10月に大日本国防婦人会が発足すると、大阪の組織はのちに同関西本部へと改組し、大阪市内やその周辺に支部を設置していきます。同本部機関誌『婦人国防』(大阪市史編纂所蔵)によれば、昭和8年11月現在、関西本部(大阪府と兵庫県・奈良県の一部を管轄)の所属分会221、会員数は14万2,788人にのぼりました。その後組織を拡大し、昭和11年11月には324分会・22万4,508人、太平洋戦争前の昭和16年3月には、570分会・58万8,669人にも膨〔ふく〕れあがります。
尼崎・小田の国防婦人会
現尼崎市域においては、尼崎市と小田村にそれぞれ昭和8年に支部がつくられており、『婦人国防』掲載の「関西本部現況調査表」には昭和8年8月から分会名が登場しています。
尼崎地区と小田地区の分会構成と会員数の変化を、表とグラフに示しました。表には、昭和8年発会当初と同年11月、さらには日中全面戦争開始後の15年6月の分会構成をあげています。会員数は7年で倍増しており、小田地区より尼崎地区の方がより一層会員を増やしていること、小田第一・尼崎尋常高等など小学校区を単位とする地域分会と、大阪製麻〔せいま〕・大日本紡績などの工場分会に大別され、会員数増加の面では前者が後者を上回っていることがわかります。
またグラフからは、昭和8年から11年にかけて分会数と会員数がともに増加しており、昭和12年の日中戦争開始後は分会数に顕著な変化がないまま、会員数が大きく伸びたことがわかります。
以上のことから、尼崎地域の国防婦人会は満州事変後の準戦時体制下に普及し、ほぼ出来上がった分会組織を基盤として、日中全面戦争後は地域分会を中心に会員が急増し、量的拡大を遂〔と〕げたものと考えられます。
地区 (支部) |
分会名 | 昭和8年 | 分会名 |
昭和15年6月 | |
発会当初 | 11月 | ||||
小田 | 東洋紡績神崎工場 | 1,950 | 1,883 | 東洋紡神崎工場 | 1,979 |
小田村第一 | 902 | 906 | 下坂部 | 1,532 | |
小田村第二 | 887 | 947 | 長洲 | 1,761 | |
小田村第三 | 1,551 | 1,601 | 杭瀬 | 3.227 | |
小田村第四 | 289 | 301 | 小田処女 | 350 | |
大阪製麻工場 | 350 | 350 | 大阪製麻 | 584 | |
大日本紡績尼崎工場 | 1,000 | 1,000 | 大日本紡績尼崎工場 | 897 | |
金楽寺 | 1,280 | ||||
尼崎ダンス連盟 | 240 | ||||
小田地区 計 | 6,929 | 6,988 | 小田地区 計 | 11,850 | |
尼崎 | 武川護謨 | 440 | 511 | 東洋ゴム化工 | 493 |
大日電線 | 360 | 360 | 大日電線 | 766 | |
尼崎第一 | 448 | 503 | 尼崎城内 | 1,398 | |
尼崎第二 | 735 | 893 | 尼崎難波 | 2,700 | |
尼崎第三 | 535 | 627 | 尼崎開明 | 1,408 | |
尼崎尋常高等 | 203 | 341 | 尼崎尋常高等 | 768 | |
日本木管 | 303 | ||||
竹谷 | 2,390 | ||||
尼崎梅香 | 60 | ||||
尼崎地区 計 | 2,721 | 3,235 | 尼崎地区 計 | 10,286 | |
総計 | 9,650 | 10,223 | 総計 | 22,136 |
戻る
支部の実態
月 日 | 事 項 |
1月1日 | 各学校にて新年拝賀式に参加 |
2月15日 | 分会連合役員懇談会(本町倶楽部) |
11日 | 建国祭宣揚大会(第一尋常小学校)に全員参加 |
3月10日 | 市主催日露戦役30周年祝賀会に役員出勤、歴戦者を慰安 |
17日 | 関西本部石井中佐の送別会開催(本町倶楽部) |
4月21日 | 立花駅付近にて満州国皇帝の東海道線通過を送迎 |
28日 | 大楠公史跡見学 |
5月12日 | 各分会の連合例会開催(高等女学校) |
19日 | 市尚武会主催招魂祭に各分会役員出動、会員も多数参拝 |
25日 | 連合茶話会(尼崎信用組合楼上) |
6月13日 | 包帯巻き講習会(尋常高等小学校) |
25日 | 歩兵第七十連隊天津派遺軍兵士を神崎駅にて歓送迎 |
29日 | 有吉新市長夫人歓迎会(尼崎信用組合楼上) |
8月17日 | 各分会作製の慰問袋を第四師団経理部に引き渡す |
9月15日 | 各分会の連合例会開催(高等女学校) |
10月11日 | 阪神防空演習に各分会から役員多数が出動(13日まで) |
11月15日 | 関西本部三周年記念事業(大阪城東練兵場にて第四師団長観閲式、中之島公会堂にて講演会)に参加 |
12月3日 | 本年度入退営兵奉告祭(櫻井神社)に参列 |
20日 | 軍事参議官転出のため東京に向かう前第四師団長を阪神国道にて見送り |
昭和10年の尼崎支部の活動を一覧にしてみました。日中全面戦争開始前で、中国大陸における大規模な戦闘がない時期ですが、連合役員懇談会や連合例会といった集まりが年4回にわたって開かれているほか、新年拝賀や建国祭、招魂祭、入退営兵奉告祭への参列、満州国や第四師団(大阪)の要人・交代派遣部隊の見送り、包帯巻きの講習会や慰問袋の調製など、さまざまな活動を展開しています。
分会活動の実情を知ることができる史料はかならずしも多くありませんが、大阪市史編纂所が所蔵する旧大阪府立婦人会館(昭和12年、大日本国防婦人会関西本部会館として開館)の史料中に、国防婦人会関西本部傘下の分会台帳が残っており、会員数や種別(特別会員・正会員・処女会員)、役員の住所・氏名・職業・経歴などが記されています。
この史料によれば、尼崎ダンスホール連盟分会が昭和12年9月に結成されています。所在地は杭瀬の「タイガー保健舞踏場」で分会長はダンスタイガー経営者の妻、副分会長と会計主任は同ホールで働くダンサーと思われる女性です。顧問にはダンスタイガー経営者のほか、ダンスパレス・キングダンスホール・尼崎ダンスホールといったホールの社長や支配人らが名を連ねており、各ホールの経営陣が主導してダンサーたちを国防婦人会に組織したものと見てよいでしょう。
このほか、小学校区単位の地域分会では分会長・副分会長を主婦が務め、会計主任は小学校教員が務めている例が多く見られます。また顧問については、地域分会では在郷軍人会の役員や小学校長、工場分会では工場の人事主任が就任している例が見られます。分会の活動が、地域や工場を取り仕切る男性の目の届く範囲内で行なわれていたことがうかがわれます。
国防婦人会に参加した女性たち
国防婦人会はあくまで陸軍の指導のもと、軍国主義を支える組織でした。しかしながら一方で、活動を通して主婦を含めた女性たちの地域社会への参加機会が増えたのも事実です。
尼崎地域において国防婦人会の組織が広がっていった昭和10年前後に、尼崎第二尋常小学校(昭和11年に難波〔なにわ〕尋常小学校と改称)の教員であった山成敏子〔やまなりとしこ〕さんは、校長に指示されて国防婦人会の分会事務を手伝っていました。山成さんは後年の回想のなかで、「お国のため」という一心で活動に参加したことにふれるとともに、教師の仕事も含めて「女性が社会に出て権利を主張し、男性と同じように評価されようとすれば、女だからという甘えを捨てそれ相当の頑張りと努力を傾けなければならなかった」と述懐しています。
山成さんは昭和19年に教師を辞めたのち、戦後も大阪で婦人会活動に取り組んでいます。このように、戦時中の国防婦人会などでの経験が、女性たちにとってはその後の積極的な社会との関わりにつながっていった例も、めずらしくありませんでした。
〔参考文献〕
寺井加奈子「卒業論文『国防婦人会』の聞き取り調査」(『地域史研究』24−1、平成6年7月)
山成敏子「体験を語り伝えることと、学ぶこと(同前)
石原佳子「大阪の国防婦人会」(大阪市史編纂所『大阪の歴史』16、昭和60年9月)