近代編第3節/工業都市尼崎の形成3コラム/洋画家 櫻井忠剛(大槻晃実)
生い立ち〜中央画壇での活躍
初代尼崎市長であり、洋画家としても知られる櫻井忠剛〔ただかた〕は、慶応3年(1867)4月7日、尼崎藩主松平家(明治維新後に櫻井と改姓)の分家である松平忠顕〔ただあき〕の次男として誕生しました。忠剛は明治3年(1870)、父の死去により幼くして家督を相続、明治9年には上京し、東京在住であった最後の尼崎藩主・櫻井忠興〔ただおき〕宅に身を寄せ、私塾である同人社や攻玉社で学問を修めるかたわら、南画を学んだと言われています。
明治13年、姉の栄子が勝海舟の長男小鹿〔ころく〕と結婚。この縁もあって忠剛は勝家に寄寓し、忠剛は勝が特に目をかけていた画家川村清雄〔きよお〕(1852〜1934)と出会い、川村に洋画を学ぶことになりました。川村は欧米に留学して本格的に油彩画を学んだ最初期の日本人画家であり、日本近代洋画の先駆者のひとりです。忠剛は明治20年の東京府工芸品共進会に《小猿の図》を出品。当時の日本洋画壇を代表する画家たちが出品するなか、忠剛は日本近代洋画の先駆者として名高い浅井忠〔ちゅう〕とともに洋画部では最高の賞である2等賞銀牌を受賞し、鮮烈な画壇デビューを果たしました。その後も明治22年の明治美術会第1回展覧会に《梟〔ふくろう〕之図》《紅葉狩》、25年の同会第4回展に《景色》を出品し、23年の第3回内国勧業博覧会では《鷲》が褒状〔ほうじょう〕を受賞するなど、新進気鋭の洋画家として華々しい活躍をみせました。
関西洋画壇草創期への貢献
忠剛は明治27年頃関西に戻り、中央画壇からは離れましたが、その後は大阪・京都を拠点に作画活動を展開し、東京に対して洋風文化の受容がまだ一般化していなかった関西の地において、洋画の普及や洋画壇の成立に深く寄与しました。
関西に戻った明治27年、忠剛は松原三五郎・山内愚僊〔やまのうちぐせん〕・松本硯生〔けんせい〕らとともに、大阪初の洋画団体である関西美術会(第一次)を結成しました。同会は、明治29年頃に松原や山内らが中心となった関西美術会(第二次)へと展開したようですが、大阪では継続せず、明治30年代以降、関西洋画壇の中心は洋画振興の気運が高まりつつあった京都へと移行していきました。同じ頃、忠剛は京都に活動の拠点を移し、画家として大いに筆を揮〔ふる〕うとともに、洋画団体の設立や洋画教育の振興に中心的役割を果たしました。
明治20年代の京都はまだ洋画の受容度が低く、発表の場がほとんどありませんでしたが、明治30年には京都美術協会主催の新古美術品展に洋画が出品されるようになり、翌31年、忠剛は田村宗立〔そうりゅう〕、山内愚僊とともに同展洋画部の審査員に就任しました。また同年の第4回展から明治35年の第8回展まで、忠剛は審査員を務めながら出品を続け、多くの作品が受賞しています。
関西美術会(第三次)の設立
地元京都や大阪から新古美術品展への洋画出品が増加し、関西における洋画振興の気運が高まるなか、明治34年6月、関西美術会(第三次)が設立されました。会頭に中沢岩太、委員には忠剛や前述の松原、山内、松本、田村に加え、伊藤快彦〔やすひこ〕と牧野克次が就任しました。相互の技術を研究し洋画研鑽〔けんさん〕の場とすることを目的として設けられた同会は、京都・大阪の洋画家を包括する関西初の洋画団体でした。同年9月、忠剛は関西美術会第1回批評会に出品し、《椿》《籠に花》《春》が3等賞を受賞しています。11月の第1回展覧会には《能楽器》《紅葉狩》など21点を出品したほか、忠剛が所蔵していた川村清雄や赤松麟作〔りんさく〕らの作品・写真など33点もの作品を協賛品および参考品として出品しており、忠剛が優れた作品を収集し、作画技術の鍛錬に励んでいたことが想像できます。忠剛は、同展覧会には明治37年の第3回展まで出品しています。
明治35年、忠剛は京都の東山霊山明烏温泉東入ルに、個人では関西初の画室(光線の作用を考えた特殊な構造の部屋)を建設しました。ここは画塾としても使われていたようで、生徒に大塚知三〔ちぞう〕がいました。大塚は新古美術品展や関西美術会展に作品を出品し受賞しています。この画塾は後述の聖護院〔しょうごいん〕洋画研究所に統合されたため、翌明治36年6月に廃止されました。
明治35年9月20日、忠剛と田村・牧野が会合を開いたのを契機に、京都の洋画家を中心とした親睦会的会合「二十日会」が結成されました。この会は、酒を酌〔く〕み交わし即興で絵を描いたり踊ったりするなど、参加者の自由な親睦〔しんぼく〕をはかると同時に、美術に関する話題が真剣に討議された場でもありました。ここで討議された洋画研究所の設立問題は、明治36年6月に浅井忠の自宅内に開設された聖護院洋画研究所へと結実し、同研究所は関西美術院設立への原動力となっていきました。
町長、市長、そして画家として
忠剛は明治36年6月頃尼崎へ帰郷し、明治38年9月、尼崎町長に就任しました。これ以降、昭和9年(1934)10月15日に死去するまでの間、職を離れていた時期はあるものの、尼崎町長・尼崎市長として通算17年余りという長きにわたり地方行政の長としての道を歩みましたが、この間も洋画との関わりは継続していました。
明治38年10月には関西美術院創立の発起人に名をつらね、明治44年から大正2年(1913)まで大阪市立大阪高等商業学校図画科嘱託教授を務めました。
大正5年には松原・山内・小笠原豊涯〔ほうがい〕らとともに大阪洋画会結成の発起人を務め、同年7月の同会第1回展には《大山蓮》を出品しています。また、昭和3年1月に開設された芦屋婦人洋画研究会では、赤松・宇和川通喩とともに洋画指導にあたりました。
公職に就いてからの忠剛は、展覧会などで作品を発表することはほとんどありませんでしたが、地元の親しい人に請われて、あるいはそのような人々に贈るために作品を描き続けていました。忠剛は、初代尼崎市長である前に関西洋画を築いた主導者のひとりであり、「洋画家 櫻井忠剛」であったのです。
〔参考文献〕
『櫻井忠剛と関西洋画の先駆者たち』(図録、財団法人
尼崎市総合文化センター、平成17年)
大槻晃実「洋画家 櫻井忠剛について」(『地域史研究』34−2、平成17年3月)
櫻井忠剛 人物と作品
櫻井の作品には扁額〔へんがく〕や衝立〔ついたて〕、柱掛といった日本の伝統工芸の形式と組み合わせ、伝統的な日本画の構図を用いているものが多い。これは日本従来の室内空間を考えてのことであるが、時代とともに洋画が飾られる空間が変化していっても、櫻井は写実性と装飾性のバランスに重点をおき、「日本の油絵」を描き続けた。
師の川村清雄は、欧米に留学し本格的な油彩画を学んだが、日本へ帰国してからは日本趣味に適〔あ〕う油絵の探究へと傾斜していき、日本の室内空間に適合する油絵を生み出した。弟子の櫻井もまた川村の画風を色濃く受け継ぎ、和洋折衷的な洋画を描いた。
川村や櫻井が描く横や縦に長い絵や、板や黒漆塗りの板に描いた絵は、当時の日本家屋のなかに浸透していたと考えられる。
また、数は多くはないが、近代建築の空間を飾るにふさわしい、キャンバスに描いた風景画なども残している。