近代編第2節/尼崎の町と村3/町村制の施行(山崎隆三・地域研究史料館)




地方自治制度の発足

 明治21年(1888)4月、市制町村制が公布され、翌22年4月1日以降順次施行されました。また明治23年5月には府県制・郡制も公布されます。これら一連の法制度整備により、明治4年の廃藩置県〔はいはんちけん〕以来複雑な変遷〔へんせん〕を経てきた地方行政組織が整理され、その後今日に至るまでの地方自治制度の基礎が築かれました。
 しかしながら、政府が市制町村制を実施した主眼は、明治22年の大日本帝国憲法制定、23年の帝国議会開設を前に官僚統治機構を地方に確立することにより、自由民権運動に代表される政党などの反政府勢力が地方において力を持つことを防ぎ、国家による指揮統制のもと近代化・富国強兵に向けたさまざまな行政施策を地方に分担実施させることにありました。
 町村制の施行にあたり、政府は新町村の人口規模を300戸〜500戸とし、概してこれより小規模であった旧来の町村の合併をすすめました。兵庫県の場合は独自に基準を700戸と定め、地方三新法〔さんしんぽう〕下における戸長〔こちょう〕役場の管轄区域を再編成して町村を定めます。
 これにより明治22年4月1日、現尼崎市域においては、尼崎町・小田村・大庄〔おおしょう〕村・立花村・武庫村・園田村という1町5村が成立しました。これらの町村が当初の制度・組織を整えていった様子を、尼崎町の例を中心に見てみることとしましょう。

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町村の成立

 旧戸長役場を転用し、あるいは新たに役場を開設して、新たな名称の町村が設置されました。

尼崎町役場

 旧城郭〔じょうかく〕内南浜に開設されました。この町役場は、大正5年(1916)の市制施行後6年間、引き続き市庁舎として利用されました。
名称:旧城下町以来の「尼崎町」がそのまま採用されました。

大正5年頃の尼崎町役場
(「御大典紀念献上 尼崎市写真帖」より)

大庄村役場

 西新田の旧戸長役場に開設。明治40年、大庄尋常高等小学校(東新田、現大庄小)の西に移転。昭和13年、さらに西側に新築(現大庄公民館)。
名称:「大庄」という村名は、古来この地に立地した荘園名「大島荘」から採ったと伝えられています。

小田村役場

 下坂部〔しもさかべ〕の小墾田〔おばただ〕簡易小学校(現下坂部小)東側にあった旧戸長役場に開設。明治28年に神崎駅(現JR尼崎駅)南の長洲〔ながす〕地内に新築移転。さらに大正12年、現小田支所の位置に新築移転。
名称:古代「小墾田宮〔おはりだのみや〕」(推古天皇・皇極天皇の仮宮と伝えられますが、小田村発行『小田のしるべ』などは孝徳天皇の仮宮であったとしています)が上坂部〔かみさかべ〕にあったという伝承から、これに由来する「小田」を村名としたと伝えられています。

小田村役場
(明治28年竣工、『小田のしるべ』より)

立花村役場

 栗山に開設。当初の位置は現立花小敷地内東側。東隣の現生島公園内に移転後、同地に新築。
名称:古代、現尼崎市域から伊丹・川西・宝塚市域などにかけて立地したと言われる散在荘園「橘御園〔たちばなのみその〕」から村名が付けられたと伝えられています。

武庫村役場

 常吉〔つねよし〕の観瀾尋常小学校(現武庫小)内にあった旧戸長役場に開設。明治40年に東隣の東武庫地内、現武庫支所の位置に新築移転。
名称:古来、郡名・川名・荘園名として親しまれた「武庫」が村名に採用されました。

園田村役場

 中食満〔なかけま〕に開設。のちに有馬街道沿いの口田中地内、園田第一尋常高等小学校(現園田小)の西側に移転。
名称 「園田」という村名は、立花村と同じく「橘御園」に由来すると伝えられています。

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明治22年町村制施行時の町村と大字


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町村会選挙の実施

 町村発足にあたって、まず最初に実施されたのが町村会議員の選挙でした。選挙権・被選挙権を与えられる「公民」は、満25歳以上の男子戸主で2年以上当該町村に居住、町村協議費負担、地租または直接国税年額2円以上納付と、その要件が細かく定められました。また、会社その他の法人あるいは当該町村の非居住者であっても、町村税納入額が町村民のうち第3位の者より多額である場合は選挙権が与えられました。こういった要件を満たす公民=選挙人たちは、町村税納入額の多い者から1級・2級(市の場合は1〜3級)に区分され、1級・2級各選挙人の投票によりそれぞれ議員定数の半数を選ぶという等級選挙制がとられていました。
 尼崎町の場合、2,700戸余りの戸主のうち1級選挙人が5%、2級選挙人が20%程度であったと考えられます。1級選挙・2級選挙を問わず、結局大多数の議員が1級選挙人から選ばれました。こうして、1級選挙人に属するわずか130人余りの有力者・富裕層が、町政に対する実質的支配権を有する体制が実現するに至ります。事実、明治22年4月25日に実施された第1回尼崎町会議員選挙(定数24人)において選ばれたのは、後掲の表のような人々でした。明治10年代の経済変動を通じて形成された地主・資産家層が、町政を中心的に担っていたことがわかります。
 こういった事情は村々においても同様でした。たとえば大庄村の場合、明治22年段階で500戸余りと推定される全戸数に対して公民は1級36人、2級225人であり、計261人と半数程度の男子戸主が選挙権を有していたものと考えられます。しかしながら、定数12人の明治22年の選挙において当選したのは1級11人、2級1人であり、上層の地主層が村政をほぼ独占していました。市制町村制実施にあたって政府が意図したのは、こういった地方の有力者・名望家層に地方行政を担わせることによる政治的安定であり、それを制度的に保証する制限・等級選挙制が定められたものと言えます。

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町村長選任と役場の開設

 町村会議員が選ばれると、次には議員の投票により満30歳以上の公民のなかから町村長が選ばれ、府県知事の認可を得て選任されました。尼崎町の場合は5月8日に第1回町会が開かれ、町長には元尼崎町戸長の伊達〔だて〕尊親、助役には津久井敏正といずれも士族が選ばれています。他の5か村においても、小田村・喜多太郎兵衛、大庄村・野草平八郎、立花村・今井正太郎、武庫村・西村孫一郎、園田村・村上民蔵と、村長に選ばれたのはすべて元戸長でした。
 次いで6月11日、尼崎町役場が開設されます。第一掛・第二掛・収税掛の3掛(係)が置かれ、収入役兼収税掛長のほか掛長2人、掛員5人、使丁6人の計14人、これに名誉職の町長・助役を加えても総勢16人という小規模なものでした。町役場でこの人数ですから、村々はさらに少人数の体制であったと考えられます。なお尼崎町役場においては町長・助役・収入役に加えて、7人の書記(掛長・掛員)は全員士族であり、発足当初の町役場において士族が知識層として、重用されたことがわかります。
 このようにして発足した町村が、行政事務をすすめていくうえで足かせとなったのが、その弱体な財政基盤でした。後掲のグラフにあるように、明治23年度の尼崎町を例にとると、歳入のうち5%のその他(雑収入など)を除いて全額が国税・県税の付加税または国政委任事務である小学校経費にあてる授業料であり、独自財源は皆無に等しく、一方歳出のうち90%は教育関係経費と役場費(主として人件費)という義務的経費が占めており、きわめて弾力性に乏しい財政構造となっていました。このため臨時の行政課題に対処する必要が生じた場合、たとえば明治23年のコレラ発生に際しては不足分500円を尼崎銀行などから借入せざるを得ず、翌24年の暴風雨による灯台・防波堤破損に際しては、県が決定した総工費946円余りの3割負担が困難なため県費を返上して工事を拒否し、県の強制支出命令によりやむなく借金をして応じるなどといった苦しい財政運営が続きました。

町村制施行当時の各町村の規模
  面積 a 人口 b b/a 歳入決算額 (同年度)
尼崎町
382.1

13,580
35.5
6,856
(明治26)
小田村 683.4 5,186 7.6 1,871 (明治27)
大庄村 565.1 3,370 6.0 1,541 (明治26)
立花村 755.8 5,080 6.7 3,443 (明治26)
武庫村 600.9 2,965 4.9 1,425 (明治23)
園田村 725.1 4,876 6.7 2,837 (明治26)

〔注〕『尼崎市史』第9巻より。面積は便宜上『明治三十四年兵庫県川辺郡統計書』または『兵庫県統計書』昭和3年版掲載の課税区分上の土地面積を掲載しており、厳密な意味での行政区域面積ではない。人口は明治22年末現在。

 上の表から、人口においても財政においても尼崎町の規模が突出していたことがわかります。戸数も2,741戸(明治22年末現在)と、県が定めた町村設置基準700戸を大幅に上回っていました。
 さらに尼崎町の場合、町域南部に人口希薄な新田地帯を含んでいるにもかかわらず、単位面積当たりの人口(b/a)は他村の5〜7倍の数値を示しており、旧城下などに人口が密集する都市的性格が表れていると言えます。


明治23年度尼崎町歳入・歳出決算

『尼崎市史』第9巻より。なお町の実質収支規模を把握するため、歳入歳出に計上されている費目のうち、町が徴収して県に納付する「地方税」は割愛した。「授業料」も歳入と歳出に同額に近い額が計上されており、町が徴収して国ないし県に上納したものではないかと考えられるが、ここでは町財政の一部として計上した。

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尼崎町会における対立

 下の表にあるように、尼崎町成立当初の町会は定数24人のうち7人を士族が占めていました。町役場幹部の独占と併せて、初期町政に士族が大きな発言権を有していたことがわかります。一方平民出身の議員17人のうち8人までもが明治22年のうちに議員の職を辞しており、議員としての日常職務に対しても不熱心であるとして、士族出身議員のなかには批判する声もありました。
 こういった対立が、やがて尼崎町議会内における東町派(商人派)と西町派(士族派)の対立となって表れます。東町派に属したのは、旧城下のうち東町にあたる風呂辻町・市庭〔いちにわ〕町や、築地町などの商業者・地主層と、これに接近しつつ尼崎紡績・尼崎銀行などの創立・経営に参画した一部士族という、尼崎町における地主・資産家層の代表とも言うべき議員たちでした。
 これに対して西町派は、旧城郭〔じょうかく〕内から西町にあたる宮町・別所村など旧武家屋敷の士族議員からなっていました。町の知識層であるとともに、明治10年代の経済変動のなか貧困層に転落する者も少なくなかった士族を代表しており、中・下層の一般町民とも利害が一致する部分がありました。とは言え、西町派の議員のなかにもみずからマッチ工場を経営する小島〔おじま〕廉平や小森純一といった人々が含まれており、資本主義化により尼崎の経済的発展を望むという点では東町派と考え方が一致していました。小森のように、新たな近代社会への展望と関心からキリスト教に入信する者もあったほか、明治24年にはこういった士族たちによって琴陽〔きんよう〕会という親睦〔しんぼく〕団体が組織され、『琴陽之珠』(のちに『琴陽雑誌』と改題)を創刊して遊郭設置反対運動をはじめとする政治的啓蒙活動を展開していきます(本節3コラム参照)。
 なお、初期尼崎町会は東町派・西町派の対立のため町長人事や町予算をめぐってしばしば紛糾しますが、明治20年代後期に入ると町議員の大部分を東町派が占めるようになり、尼崎町における資本主義経済の発展と相まって、地主・資産家層が官僚組織と結んで町政をほぼ全面的に掌握するに至りました。

第1回尼崎町会議員選挙選出議員の族籍・職業
氏名 族籍 職業・主要な関係会社
伊達 尊親 士族 初代町長、尼崎紡績、川辺馬車鉄道(社長)
平林 昌伴 士族 尼崎紡績
木島 茂平 平民  
渡辺 宇平次 平民  
大塚 茂十郎 平民 醤油醸造業、尼崎紡績、尼崎銀行、尼崎挽材、旭合資
小阪 忠平 平民 醤油醸造業
橋本 吉右衛門 平民 三収組紡績所、川辺馬車鉄道
梶 源左衛門 平民 質商、肥料商、三収組紡績所、尼崎共立銀行、尼崎紡績、川辺馬車鉄道
梶 鶴之助 平民 尼崎共立銀行
田中 七平 平民 酒造業、菰商、尼崎紡績、尼崎銀行、旭合資
秋岡 治郎作 平民 酒造業
中村 七郎平 平民 (以上1級議員)
野田 正景 士族 三代目町長                  (以下2級議員)
津久井 敏正 士族 初代助役
渡辺 源三郎 平民 尼崎共立銀行
村松 秀致 士族 尼崎紡績、尼崎銀行
小島 廉平 士族 小島燐寸
米沢 喜行 士族 尼崎紡績
稲垣 文三郎 平民  
生沢 源十郎 平民  
奥田 吉右衛門 平民 魚問屋、尼崎紡績、尼崎共立銀行
八木 新助 平民 油商、川辺馬車鉄道
三浦 長平 平民 質商、尼崎紡績、川辺馬車鉄道
中塚 弥平 平民 綿花、綿糸商、尼崎紡績、尼崎銀行、川辺馬車鉄道、旭合資
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