近代編第2節/尼崎の町と村3コラム/琴陽会と遊郭設置問題(山崎隆三・地域研究史料館)




 明治中頃、尼崎町には旧尼崎藩士族をおもな会員とする「尼ヶ崎琴陽〔きんよう〕会」という親睦〔しんぼく〕組織があり、『琴陽之珠』と題する機関誌(のちに『琴陽雑誌』と改題)を発行していました。会員の投稿する論説や書評、文芸作品、紀行文、従軍日誌、川辺郡・尼崎町に関する雑報や統計などが掲載されている貴重な史料であり、特にこの時期の士族たちの関心事や考え方を知ることのできる数少ない情報源です。『尼崎市史』第3巻(昭和45年発行)の史料調査の過程で、東京大学法学部の明治新聞雑誌文庫に保存されているのを発見することができました。国立国会図書館をはじめ主要な史料保存機関も所蔵しておらず、尼崎市内においても見出すことができていないので、現在のところ唯一所在が判明しているのが、明治新聞雑誌文庫保存本ということになります。
 (『図説尼崎の歴史』刊行後、尼崎市立地域研究史料館が本雑誌の一部の号の原本を入手)

『琴陽之珠』『琴陽雑誌』

 琴陽会がいつ発足したのかは不明ですが、『琴陽之珠』が明治24年(1891)5月に創刊されているので、この頃までに会が組織されたことがわかります。琴陽会の規則によれば、同会は「尼崎人」の協和親睦や知徳を磨くことを目的としており、「尼崎人」以外の者も会員2名以上の紹介により入会することができました。明治24年9月発行の『琴陽之珠』第3号に掲載された名簿には会員141人が記載されており、その居住地は尼崎町50人をはじめ、周辺地域や近畿圏、東京市など各地に及んでいました。
 琴陽会の機関誌は、明治24年5月の創刊号から29年11月の51号までのうち、38号分が明治新聞雑誌文庫に保存されています。発行所の琴陽会は尼崎町二一番屋敷(旧城郭〔じょうかく〕内五軒屋敷)・高木直寛方に置かれており、編集人は同家の高木徳衛となっています。高木家は尼崎藩家老を務めた家柄であり、明治25年7月の自由党懇親会や26年10月の三収組紡績所開業式が同家で催されるなど、尼崎町士族社会の中心的な存在のひとつであったと考えられます。
 同誌は、おそらく15号(明治新聞雑誌文庫には保存されていない)までが『琴陽之珠』と題され、通常46頁前後の号が隔月刊で発行されました。明治26年11月の16号以降は『琴陽雑誌』と改題して16頁の号を毎月発行。28年1月の30号以降は発行名義が琴陽雑誌社に変更されます。明治29年3月の44号の記事が警察より注意を受けたのをきっかけに、発行についてたびたび注意があり、同年8月の総会において、保証金を納めて政事記事を掲載していくことを決定。48号を休刊としたうえで、明治29年9月の49号より政事雑誌として再出発します。この保証金を用意したのは、元町会議員である父・廉平とともに小島燐寸〔おじまマッチ〕を経営していた小島金次郎でした。49号より編集人が小森貞治郎、発行人が小島金次郎へと名義が替わり、50号からは琴陽雑誌社の所在も小島方へと変更になっています。

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誌面に見る士族層の社会批判

 『琴陽之珠』『琴陽雑誌』の記事・原稿からは、当時の尼崎町をめぐる社会状況や、士族を中心とする琴陽会会員たちのそれに対する意識を読み取ることができます。この当時の尼崎町には、士族資本によるマッチ工業に加えて、尼崎紡績の創設(明治22年)や川辺馬車鉄道開通(同24年)といった近代産業化の萌芽〔ほうが〕が見られる一方で、明治10年代の経済変動により生じた町民間の経済格差が厳然として存在しており、多くの士族や一般町民たちは引き続き経済的困難のなかに置かれていました。
 誌面からは、こういった現実に対する士族層の危機意識を読み取ることができます。たとえば明治24年9月の『琴陽之珠』第3号に掲載された「山口生」(山口幾三郎と推定される)の「馬車鉄道ト優勝劣敗」は、川辺馬車鉄道が尼崎町民らの手により創設されたことを喜ぶ一方で、旧来の人力車・馬力運送業者が廉価・軽快・安全な馬車鉄道に敗退した「優勝劣敗」が、経済隆盛の大阪・神戸に隣接する尼崎町にも同様に起こらないかと案じています。そして、そうならないため尼崎町は、工業に活路を見出すべきであると結んでいます。
 また、明治25年7月の8号と9月の9号には、「術民田中」または「術民居士」(田中貞三郎か)の「愛郷狂」と題する文章が掲載されています。筆者は尼崎町の最大の問題点を、人心が熱血を失ったこと、貧富の格差、農工商各産業の不振にあると指摘し、尼崎町の貧困層の実態を紹介しています。それによれば、明治25年4月現在全町戸数2,546戸のうち、独立して生計を立てることができず他者の保護を受ける者が1,868戸、さらに一切の租税を免除される極度の貧困層が121戸にのぼり、町内各所に餓死寸前の貧民を見ることができるとしています。そしてその原因は、地主・資産家層が貧困層を踏みつけにして利得に走るばかりで、地元尼崎町の産業に投資してこれを育成し、町内知識層や職工・小作人などの経済状況にも配慮した行動をとらないからであると厳しく批判しています。
 尼崎町政をめぐる東町派(商人派)と西町派(士族派)の対立の背景には、尼崎町をめぐるこういった士族層の危機意識や、地主・資産家層に対する激しい反発と批判が存在していました。

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尼崎町への遊郭設置計画

 ところで、明治29年に政事雑誌へと衣替えした『琴陽雑誌』は、ちょうどこの頃問題となっていた尼崎町への遊郭〔ゆうかく〕設置計画に対して激しい反対の論陣をはります。あるいは、同誌の政事雑誌化や警察当局からの圧力そのものが、この問題に対して反対する琴陽会の政治的立場に起因するものであったのかもしれません。
 折しも琴陽会総会において機関誌の今後の方向性が議論されていたのと同じ明治29年8月頃、元町長の伊達〔だて〕尊親をはじめ商工業者・町会議員ら19人が、別所村小役人町への遊廓設置を県に出願します。明治13年と16年にも同じく遊郭設置が出願されますが認められず、尼崎町内には遊郭がありませんでした。この遊郭設置賛成派の主張を、ほかならぬ設置反対派の『琴陽雑誌』第49号に掲載された、出願書文案により知ることができます。それによれば、海陸運輸交通の隆盛や企業・工場の増加にともない、尼崎町に出入りする水夫や居住する職工などが増加したため、これらを相手にする私娼窟〔ししょうくつ〕や街娼〔がいしょう〕などが増えており、性病の蔓延〔まんえん〕が懸念される。また大阪・西宮の遊郭に通う職工の欠勤が工場生産に損害を与えており、これらを解決するには町内に遊郭を設置して公娼〔こうしょう〕を置くのが良策である、というのが賛成派の論理でした。

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遊郭設置に反対した人々

 この遊郭設置計画に真っ向から反対したのが、尼崎町に増えつつあったキリスト教徒たちでした。尼崎町では早くも明治8年から神戸の宣教師や西宮教会員らによる伝道が行なわれており、明治18年5月にプロテスタントの大阪浪花教会員が伝道活動を行なって以降は、同教会の伝道地となりました。明治19年には3人の尼崎町民が洗礼を受け、25年には浪花教会の講義所が伝道教会に昇格します。この教会に明治29年3月に赴任したのが、伝道師の内田尚長でした。内田はキリスト教的道徳観を背景とした廃娼論にもとづき、尼崎のキリスト教青年会会員20人余りを代表して遊郭設置反対の県知事宛陳情書を8月25日付けで提出しています。
 知事はこれを受けて、郡長を通じて尼崎町会に遊郭免許の可否を諮問〔しもん〕します。諮問にこたえて、町会は9月15日に満場一致で設置賛成を決定。ただし出席議員はわずか10人であり、町長をはじめとする議員11人が欠席でした。そしてこの町長こそ、明治19年に尼崎で最初に洗礼を受けた3人のうちのひとり、小森純一でした。同時に、新たに『琴陽雑誌』編集人に就任し、遊郭反対を論じた小森貞治郎の父親であり、ふたりはともに小森燐寸を経営していました。さらには貞治郎もまた、父親と同様キリスト教徒でした。
 49号において強引な町会決議を報じて非難した『琴陽雑誌』は、50号においても引き続き設置反対論を主張。こういった反対世論を受けて、11月、県は尼崎町への遊郭設置出願を却下しました。こののち、明治30年代以降も遊郭設置問題は再燃し、小森純一らの反対をよそに町と町会が設置を推進するという事態が繰り返されますが、第二次世界大戦後に至るまで、現尼崎市域に公認の遊郭が設置されることはありませんでした。明治期尼崎町のキリスト教徒や琴陽会などに始まる、反対運動の結果であると言えるでしょう。


遊郭設置に反対した小森純一(弘化4年・1847〜昭和11・1936)と『琴陽雑誌』第50号


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