近代編第3節/工業都市尼崎の形成1/日露戦争(山崎隆三・地域研究史料館)




日露戦争の開戦

 日清戦争後の日本は、北東アジアの支配権をめぐってロシアを仮想敵国に設定し、軍備の拡張・増強をすすめました。明治29年(1896)3月、陸軍平時編制が改正されて師団が新設されることになり、それまで常設6個師団であった兵力が12個師団へと倍増します。この増設師団のひとつが、司令部を姫路に置く第10師団でした。新編制のもとで川辺郡・武庫郡は、神戸市や播州東部地域とともに第10師管区の神戸連隊区に属し、その壮丁〔そうてい〕(兵役の義務を負う壮年の男子)は、歩兵第39連隊の要員となりました。
 明治37年2月10日、日本政府はロシアに対して宣戦を布告し、4月16日には第10師団に動員命令が下されました。戦時編制への移行を完了した師団は5月7日姫路を出発。神戸から乗船し、戦場となる満州〔まんしゅう〕(中国東北部)への渡航を開始しました。

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軍医・中島幸造

 尼崎町内の別所村鷹匠町〔たかじょうまち〕で内科・小児科を開業していた医師・中島幸造(旧尼崎藩士米澤家に生まれ、中島家を相続。日露戦争より復員後、米澤姓に復する)は、日露戦争開戦にともなって動員され、第10師団衛生予備員二等軍医として出征しました。中島医師は師団に従軍して中国東北部を転戦し、明治38年9月5日の講和条約調印を経て、その翌年2月に帰国するまで2年近くにわたって戦地で過ごすことになります。従軍期間中、中島軍医は尼崎町に残してきた妻や父母宛に60通以上にのぼる手紙やはがきを送り、戦地の状況やみずからの健康状態、生活ぶりを詳細に伝えています。現在、子孫の方の手元に保管されているこれらの書簡類をもとに、中島軍医の足跡をたどってみることにしましょう。

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中島軍医の書簡類から

 第10師団は5月19日に南尖澳〔ナンチィエンオゥ〕へ上陸を開始しました。師団はただちに上陸地点の北東に位置する大孤山〔タァクゥシァン〕へ兵力を集結して北上を開始し、6月8日には岫厳〔シィォウイェン〕を占領します。中島軍医を乗せた小雛丸が上陸地点に到着したのは6月14日。この日、彼は大孤山から家族や友人に宛てた第一信を送り、戦地への到着を知らせています。
 中島軍医は師団に続いて岫厳へと向かい、岫厳定立病院外科主任医官の任務に就きました。手紙によると彼は毎日百名前後の負傷者を治療し、受持の外科病室にはロシア軍将校や下士官も入院していました。さらに赤痢〔せきり〕の流行にも対処せねばならず、勤務は多忙を極めました。師団は続いて8月1日に析木城〔シィムゥチォン〕を制圧します。前線の病院には患者があふれていたにもかかわらず、現地は雨天続きのため河川が通行止めとなり患者を後方に移送することができず、その上食糧も不足し、析木城での勤務は厳しいものとなりました。

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遼陽から奉天へ

 第10師団は後備〔こうび〕第10旅団によって増強のうえ第4軍に編制され、ロシア軍主力が集結する遼陽〔リィァオヤン〕にすすみます。遼陽会戦では22万余りのロシア軍に対して日本軍は13万余りの兵力で攻撃し、約2万3,500人の死傷者を出しました。続いて10月中旬、沙河〔シャホ〕で大規模な戦闘がありましたが、その後戦線は膠着〔こうちゃく〕し、両軍は対陣したまま厳しい冬を迎えます。この間中島軍医は析木城から大楽屯〔タァユェトゥン〕定立病院に移り、続いて遼陽救護所長としての勤務に就いています。
 ロシア艦隊の基地である旅順〔リュイシュン〕に対し、第3軍は総攻撃を繰り返しては大きな犠牲を出していましたが、中島軍医の遼陽着任後間もなく旅順は陥落し、明治38年1月5日、遼陽の第4軍は祝賀会を開きました。前年夏、尼崎では貴布禰〔きふね〕神社の夏祭りが旅順陥落を期して挙行されるとの知らせを受けて、内地の方々は「気楽千万」と手紙に書き送った中島軍医でしたが、この時ばかりは余興を楽しんだようです。
 続く奉天〔フェンティエン〕での会戦では両軍57万の兵力が衝突しました。日本軍は奉天を占領したものの、ハルピンに向けて退却するロシア軍を追撃する余力は残っていませんでした。中島軍医は軍に続いて北上し、4月23日、奉天停車場前の第4軍兵站〔へいたん〕病院に着任します。

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帰国まで

 6月下旬、中島軍医は開原〔カイユィアン〕へと移動し、病院建設に従事します。開原滞在中の9月5日、アメリカの仲介で日露両国は講和条約に調印しました。戦場の日本軍は続々と帰国を始め、中島軍医もこの地で輸送の順番を待つことになります。帰国は明治39年2月。実に1年10か月ぶりの帰宅となりました。
 以上、中島幸造軍医の書簡類を手がかりに、その足跡を追ってきました。数十通にのぼる書簡類は、激しい戦闘や伝染病のまん延といった、当時の尼崎町民や市域村々の村民たちが経験した、戦場の実態を知ることのできる日露戦争の貴重な記録であると言えるでしょう。

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中島幸造医師の日露戦争従軍


 明治38年1月、遼陽滞在中の写真(米澤敏男氏蔵)。向かって右が中島軍医。書簡には、食物不足のため痩せたが体重はなお23貫(約86kg)以上あると書かれています。中島軍医は当時としてはかなりの巨漢でした。


戦地における中島幸造医師の足跡(書簡文を現代語に訳したうえで抜粋引用しました)


 戦地への到着を伝える、明治37年6月14日付の絵はがき(米澤敏男氏蔵)。中島軍医の顔写真を刷り込んで、現地において印刷されたものを使用しています。

〔参考文献〕
米澤敏男「温容、追想の我が祖父−日露戦争に従軍した尼崎の医師、米澤幸造−」(『地域史研究』28−1、平成10年12月)

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広範な動員と犠牲

 中島軍医は岫厳で、本興寺西北横町の魚屋・新城常次郎上等兵や、近所の八百屋の憲兵と出会い、両家へ無事を知らせるよう家族に伝えています。このように、同じ町内や、ごく近隣から複数の応召者〔おうしょうしゃ〕があったことからも、日露戦争における広範囲な動員の様子がうかがわれます。
 その実情を、武庫郡大庄〔おおしょう〕村を例にとって見てみることとしましょう。大庄村では日露戦争に120人の兵士が動員されています。開戦当時約550戸、人口3,600人であった同村から、4〜5戸に1人の割合で召集され、将校1人を含む5人の戦没者(戦死者および戦病死者)を出しました。
 日露戦争の陸戦は、高度に改良された銃砲で武装した大規模兵力が衝突するという、世界史的にも新たな戦闘形式の戦いとなりました。それだけに犠牲が大きく、戦争の長期化にともない、ますます大量の兵士を動員し、戦地へ送る必要が生まれました。

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武庫郡大庄村・武庫村における兵士の動員


「明治三七、八年戦役大庄村凱旋〔がいせん〕軍人名鑑」(地域研究史料館蔵、橋本治左衛門氏文書(1))および『大庄村誌』より作成。
 多大な人的損害を補うため、明治37年9月には徴兵令が改正され、補充兵(徴兵検査合格者のうち現役とならなかった者)や後備役〔こうびえき〕(現役・予備役を終えた者)の徴兵が強化されました。


 大正15年(1926)帝国在郷軍人会武庫支部建立の忠魂碑〔ちゅうこんひ〕。後に刻まれた石碑には、日清戦争以来の旧武庫村民戦没者名が記されています。その名簿から、日清戦争では1人であった武庫村の戦没者が、日露戦争では8人にのぼったことがわかります。


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巨額の戦費

 こうして日露戦争は、日清戦争とはけた違いの、日本の軍事的・経済的実力をはるかに超えた規模の戦争となりました。政府は非常特別税の名のもとに酒税・砂糖消費税などを増額し、さらに塩や煙草の専売を強化しました。こうした生活必需品にかかる負担増は、働き手を奪われ、物価高にあえぐ国民の生活をさらに困窮〔こんきゅう〕させることになります。
 加えて戦争中、5回におよぶ公債募集がありました。尼崎町では委員を置いて募集の監督や訪問・勧誘を行ない、未払込者は役場に召喚して払い込みをうながすなど、募債に努めました。
 こういった努力の結果、応募金額合計は126万3,525円に達しました。明治38年度の尼崎町歳入3万3,253円と比べると、いかに巨額であったかがわかります。しかも内国債のみでは不足し、戦費の40%に相当する外国債をロンドンで募集しなければなりませんでした。こうして日露戦争は、かつてない深刻な影響を日本社会に及ぼすことになりました。

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日露戦争後の尼崎

 日露戦争期、国民が困窮する一方で、軍需〔ぐんしゅ〕産業を中心に企業経営は好調でした。明治39年には、綿糸紡績業が技術者や職工を充分配置して日夜操業してもなお生産が需要に追いつかず、今後6か月分の生産予定がすでに売買契約済であると、尼崎町長から川辺郡長に対して報告されています。尼崎紡績を例にとると、純利益が明治37年上期までの12万円前後から、39年下期には47万円と約4倍に急上昇しています。こういった増収を背景に、大阪の津守〔つもり〕に工場を新設して織布兼営を実現。これが、全国的な大紡績資本へと飛躍する出発点となりました。
 紡績業の好調は、関連事業者をはじめとする諸製造部門の発展を刺激し、金井フレーチ・リング製造所、合資会社渡辺硝子〔ガラス〕製造所などが創設されます。しかしながら、これら地元小資本が設立した工場のなかには、明治末期の戦後不況のなか閉鎖または減資したものが少なくありませんでした。こうして不況により小工場の芽がつみ取られる一方で、旭硝子に代表される大資本が進出し、工業都市尼崎の基盤を形成していくこととなります。


 ランプの火屋〔ほや〕などを製造した渡辺硝子製造所(築地、大正5年頃、「御大典紀念献上 尼崎市写真帖」より)
 旧尼崎藩士・渡辺直三郎らが明治13年に大阪天満に起こした硝子製造所「親交社」を息子の渡辺明が受け継いで明治38年に旧城郭〔じょうかく〕内に設立。やがて合資会社へと改組し、築地に移転しました。

 日露戦争期から戦後にかけての尼崎における会社・工場の発展にともない、交通機関も発達しました。明治38年4月、安田財閥の支援を受けた阪神電気鉄道は、大阪・神戸間の広軌複線軌道を開通。関西初の都市間連絡鉄道でした。
 阪神の開通により、大阪・神戸間は1時間30分で結ばれることとなります。また同社は沿線地域への電力供給も行ない、阪神間の都市化を支えました。
 明治39年3月、鉄道国有法が公布され、政府は全国の私鉄買収、幹線鉄道の国有化を推しすすめます。日清・日露戦争を経て、軍需輸送強化の必要性が高まったことが、その背景にありました。明治40年8月、同法にもとづき阪鶴〔はんかく〕鉄道が国有化され、福知山線と改称されました。



官線福知山線の起点となった尼崎駅(後の尼崎港駅)に停車中の貨客混合列車(大正5年頃、「御大典紀念献上 尼崎市写真帖」より)


阪神電鉄開業当初の車両「1号型」の内装(明治39年同社発行、開業一周年記念絵はがきより)
 アメリカから輸入した定員80人の大型ボギー車車内は、大きな窓と電灯により明るく、ビロード張りのシートが高級感を醸〔かも〕し出していました。


大正初期の阪神電鉄庄下〔しょうげ〕停留場(現阪神尼崎駅、加藤みつ氏所蔵絵はがきより)
 写っている車両は大阪方面へ向かう「1号型」です。

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