近代編第3節/工業都市尼崎の形成3/尼崎市の誕生(島田克彦)
- 市制施行
- 尼崎市誕生の背景
- 尼崎市庁舎
- 初期行財政の特徴
- 市制施行から昭和初期にかけての尼崎市財政
- 教育行政の拡充
- 市会議員選挙と町総代の設置
- 旧町会議員と新市会議員・町総代
- 水道事業計画
- 水道敷設の実現
- 事業の展開
- 社会事業
- 市設住宅
市制施行
大正5年(1916)4月1日、旧尼崎町と、立花村のうち東難波〔なにわ〕・西難波の区域に市制が施行され、人口3万2,013人の尼崎市が誕生します。兵庫県下では神戸市、姫路市に次いで3番目、全国では66番目の市制でした。4月9日に第一尋常小学校校庭において祝賀会が催され、その後3日間は児童・生徒の旗・提灯〔ちょうちん〕行列をはじめとする祝賀行事が続き、市内は沸〔わ〕き立ったと言います。続いて5月30日・31日に第1回市会議選挙が実施され、8月11日には櫻井忠剛〔ただかた〕市長代理の市長就任が裁可されるなど、市としての体制が整えられていきました。
大正4 5.25 |
小田村南部7か村代表梶原綱太郎より尼崎町会町是調査委員宛書簡「(合併について)具体的には回答申上るの運〔はこび〕に参らず」 |
6.5 | 東難波〔なにわ〕・西難波代表者より尼崎町に対し、条件付き合併申込書提出(尼崎町との交渉を経て7月1日修正提出) |
7.6 | 尼崎町会、全会一致で東・西難波の編入、市制施行上申を可決 |
7.13 | 尼崎町より内務大臣宛「市制施行ノ義ニ付意見上申」を提出 |
8.1 | 尼崎町、市制施行日(9月1日施行を希望)および合併にともなう財産処分方法に関する意見書を提出 |
12.17 | 立花村、尼崎町よりの報償費提供をもって、東難波・西難波の分離を承認 |
大正5 3.16 |
緊急町会、内務大臣および県知事の諮問に対する答申書を議決 |
3.28 | 内務省より川辺郡役所へ、尼崎市制施行告示の官報掲載について電話通知、川辺郡役所より尼崎町役場へ通知 |
3.31 | 尼崎町解散式挙行、櫻井忠剛〔ただかた〕を市長代理とすることを決定 |
尼崎市誕生の背景
市制施行の背景には、どういった事情や時代状況があったのでしょうか。
明治半ば以降、徐々にすすんでいた尼崎町や周辺地域への工場立地は、日露戦争後さらに大きな進展を見せます。町の人口も大きく増大し、大正元年には2万5千人を突破。これにより町内の都市化が急速にすすみ、行政需要も増大していきます。義務教育年限の6年間への延長(明治41年・1908)や学齢児童の増加に対応した学校教育施設の拡充、伝染病対策などへの財政支出がかさみ、道路・橋梁〔きょうりょう〕の修繕をはじめとする必要不可欠な土木工事費も切り詰めざるを得ないなど、町は苦しい財政運営を強いられます。
こうしたなか、町経常費支出の1割近くを占める郡費の負担が大きく、さらには郡による監督行政のわずらわしさへの反発や弊害もあって、市制施行による郡からの独立を求める声が町内に高まっていきました。
市制施行に至る具体的な経過は、前掲の表のとおりです。当時の尼崎町人口が市制施行基準の3万人に満たなかったため、当初は小田村南部との合併案が浮上しますが、小田村側の同意を得られず不調に終わります。そこで、これにかわって立花村より東難波・西難波を編入する方針が採用され、報償費をめぐる立花村との交渉を経て、市制施行を迎えるに至りました。
尼崎市庁舎
戻る初期行財政の特徴
市制施行後の市財政の変化を、後掲のグラフにまとめてみました。歳出面では、都市化にともなう行政需要の増大と多様化を反映して、各費目が全般的に増大しており、大正5年と14年を比較すると、一般会計歳出決算が10万円余りから70万円余りと約7倍になっています。この一般会計に、上水道や市設住宅の建設・経営費をはじめとする特別会計が加わって、市の行財政規模は町制時代とは隔絶した巨大なものとなりました。
歳入も、市税を中心に大幅に増大しています。市税の内訳を見ると、市制施行直後は、県税家屋税付加税が70%以上を占めており、その後は芸妓〔げいぎ〕業や演劇、船・自転車等の所有に対して課税する県税雑種税付加税、法人・個人に課税される国税所得税付加税、物品販売業や製造業に課税する国税営業税付加税などの比率が増大。ことに雑種税付加税は、大正後期においては家屋税付加税を上回る比率となりました。
こうしてみると、急速に成長しつつあった市内企業に課税される営業税や法人所得税への付加税が、税収の一部を占めているとは言え、それらが市税に占める比率は、この段階ではごく低いものにとどまっていたことがわかります。また、税収の大部分は国税県税への付加税であり、固有の財源を持たない尼崎市は、行政需要が増大するなか財源不足に苦しめられます。
なお、事務の多様化と事務量の増大に応じて、市役所の組織も拡充され、吏員〔りいん〕(職員)数は大正7年の52人から、15年には104人へと増員されています。
市制施行から昭和初期にかけての尼崎市財政
(いずれも『尼崎市史』第9巻より)
戻る教育行政の拡充
市制施行後の歳出増の、大きな要因のひとつとなったのが教育費の増大でした。明治末期から大正期にかけては、義務教育年限の延長や就学率の向上、人口増にともなう学齢児童数増加などにより、尼崎町・市や現尼崎市域の村々において小学校の教室・教員が不足し、時間をずらして同じ教室を使って授業を行なう二部授業を余儀なくされていました。このため、教育環境の悪化が問題となり、市は小学校校舎の増・改築をすすめます。
同時にこの時期、中等学校進学希望者の増加に応じた中等教育機関の拡充も、重要な課題となりました。このため大正11年、市議会において市立中学校設置が可決され、翌12年4月に尼崎尋常高等小学校に併設される形で開校。大正13年5月に北大物〔だいもつ〕町に移転し、大正14年12月に鉄筋校舎を同地に新築、昭和5年には県に移管されて県立尼崎中学校となりました(現県立尼崎高校)。
一方、女子教育の分野では、従来の尼崎女子技芸〔ぎげい〕学校を引き継ぐ形で大正2年に設立された実科高等女学校を、大正8年に市立高等女学校へと改組拡充し、校舎の増築を行ないます。改組の際、修業年限を従来の4年から5年へと延長することが定められ、大正15年入学生徒から5年制が適用されました。
市会議員選挙と町総代の設置
市制施行にともない、旧町会議員は任期を1年残して退任し、新たに市会議員が選出されることになりました。等級選挙制(本編第2節3参照)のもと、納税額により選挙人が3級にわけられ、大正5年5月30日に3級、31日に1級・2級の選挙を実施。後掲の表のとおり、各級10人、計30人の議員が選ばれました。
旧町会議員24人のうち16人が再出馬しますが、当選はわずか7人で、残りはすべて新人議員であり、そのうち1級議員の多くは企業の推せん候補でした。市制町村制は、市町村税納税額第3位の市町村民より多額を納税する法人の選挙権を認めており、第一次大戦期の経済成長を背景に多額の市税を負担していた企業は、この第1回尼崎市会議員選挙における1級選挙人数10のうち8を占めました。1級議員定数は選挙人数と同じ10人であり、選挙権を持つ企業をはじめとする尼崎の主要企業は、市会の3分の1に近い推せん議員をほぼ無競争で送り込むことができました。この結果、企業は新たに発足した尼崎市政に対して、従来以上に大きな影響力を持つことになりました。
一方、複雑化する市政運営を補助する、市と市民の間の連絡機関の必要性が増したことから、大正6年9月の市会において、市域を24区にわけて区ごとに総代・副総代を選出することが決定されました。市議や旧町議が総代に選ばれる場合もあり、旧来の地域有力者の一部が総代という形で市政の末端を担いました。大正7年の米騒動の際、米の廉売〔れんばい〕実施などに奔走〔ほんそう〕したのは彼ら総代たちであり、その経験は、貧困世帯の保護救済を通じて地域秩序を維持する方面委員制度へと受け継がれていくことになります。
旧町会議員と新市会議員・町総代
町議氏名 | 職業 | 大正2.4 町議選 |
大正5.4 町議選 |
【推せん企業】 |
天野 平八 | 倉庫運送業 | ○ | ○ | |
上田 福松 | 煙草元売捌所 | ○ | ||
奥野 庄七** | 肥料商 | ○ | × | |
木原 丑松 | (不明) | ○ | ||
小森 純一 | 燐寸製造業 | ○ | ○ | 【岸本製釘所】 |
庄司 新吾 | (不明) | ○ | × | |
寺本治三郎 | 質商 | ○ | ○ | |
長尾 喜平 | 醤油醸造業 | ○ | ○ | |
橋本 利平* | 材木商 | ○ | ○ | |
林 太平* | 地主 | ○ | ○ | |
林 安次郎 | 尼崎紡績社員 | ○ | ||
吉弘 直誠 | (不明) | ○ | × | |
井澤清太郎** | 薬種商 | ○ | ||
石関 寛之 | (不明) | ○ | ||
梅澤 常吉* ** | 地主 | ○ | ○ | |
岡本太郎兵衛** | 薬種商 | ○ | × | |
川西重太郎 | 荒物雑貨商 | ○ | × | |
小島 種吉 | 燐寸製造業 | ○ | × | |
鷺 六三郎** | 米穀商 | ○ | ||
高岡利右衛門** | 醤油醸造業 | ○ | × | |
玉井音次郎** | 呉服商 | ○ | ||
中西 市平** | (不明) | ○ | × | |
林 寅次郎 | (不明) | ○ | ||
古川 辰蔵 | 元官吏 | ○ | × |
市議氏名 | 職業 | 大正5.4 市議選 |
【推せん企業】 | |
飯田 寛三 | 東亜セメント役員 | ○ | 【東亜セメント】 | |
上村 盛治* | 新聞記者 | ○ | 【尼崎紡績】 | |
大塚茂十郎 | 醤油醸造業 | ○ | ||
梶 鶴之助 | 尼崎共立銀行役員 | ○ | 【尼崎共立銀行】 | |
阪本文一郎 | (不明) | ○ | 【旭硝子】 | |
渋谷 佐平* | 尼崎瓦斯役員 | ○ | 【日本木管】 | |
高木栄之助 | 阪神電鉄社員 | ○ | 【阪神電鉄】 | |
櫛橋 節三 | 岸本製釘所社員 | ○ | 【横浜電線】 | |
本咲利一郎 | 尼崎銀行頭取 | ○ | 【尼崎銀行】 | |
岡澤 釣作 | 地主 | ○ | ||
奥田吉右衛門 | 生魚問屋 | ○ | ||
西村 彦平 | 質商 | ○ | ||
松本 健次 | セメント等販売 | ○ | ||
三浦 市蔵 | (不明) | ○ | ||
村松 章 | 旭硝子社員 | ○ | ||
樫本 武平 | 金融業 | ○ | ||
小寺半左衛門** | 地主(立花村村議) | ○ | ||
高岡権十郎** | 地主(立花村村議) | ○ | ||
田村 藤吉** | 尼崎土地社員 | ○ | ||
寺本治三郎 | 質商 | ○ | ||
中塚 弥平 | 綿糸販売業 | ○ | ||
福井 仲吉 | 医師 | ○ | ||
増村 隆一 | 尼崎共立銀行行員 | ○ |
(写真はいずれも『尼崎市現勢史』より)
戻る水道事業計画
明治期、尼崎町民は井戸水や水屋(行商人)からの買い入れにより生活用水を得ていましたが、明治後期に入ると井戸水の水質が悪化、水不足のため河川水を飲料用としたことが伝染病流行の原因となったことなどから、水道敷設〔ふせつ〕が町政上の重要課題として浮上しました。明治41年には京都帝国大学・大藤高彦教授に調査を委嘱し、水道敷設の設計が行なわれますが、工費の見通しが立たず先送りとなります。大正2年に阪神電鉄が水道事業進出への意欲を見せると、町は対抗して政府への敷設出願を計画しますが、町会の同意を得ることはできませんでした。
しかしその一方で、大正期に入るとさらに井戸水の塩水化という問題が発生します。例えば旧城下の市庭〔いちにわ〕町では、飲用をはじめ炊事や洗濯にも支障が出るようになりました。事態の深刻化を受けて、大正3年7月、町会は前年に可決されたものの延期となっていた水道敷設計画案を再度可決し、10月には敷設認可と起債を政府に出願。翌大正4年1月には県から技師が派遣されて水源予定地の小田村西川を視察し、神崎川の河水は飲用として問題なしという結論を得ました。
水道敷設の実現
尼崎町における水道敷設計画を常に制約した要因は、財源問題でした。国税重視の租税体系のもと町財政は基盤が弱く、水道敷設のような大事業を単独で実施することは困難でした。政府は伝染病対策として大都市、重要港湾地帯やそれらに準ずる地域への水道敷設に国庫補助を行なっていましたが、補助の対象は町村にまでは及んでいませんでした。
こうした背景のもと、町は水道敷設計画を、もうひとつの行政課題である市制施行と密接に関連させて推進していきます。大正4年頃には、水道敷設に対する国庫補助を得るため市制施行を先行させるべきであるとの意見が町内において有力となり、同年7月13日付けで提出された市制施行に関する内務大臣宛意見書においても、国庫補助への期待が表明されました。
大正5年6月、市制施行後の市会は、敷設区域を東難波・西難波を除く尼崎市域とし、工費43万円余りの水道敷設認可申請と国庫補助申請を決定しました。10月に認可を受けた市はただちに用地買収と測量に着手、6年4月には小田村西川で水源地工事を開始します。第一次大戦の影響による資材・労賃の高騰〔こうとう〕に悩まされながらも、市は高知瓦斯〔ガス〕会社の古鉄管を入手し、さらに木管を代替使用するなど、工夫を重ねて工事を実施します。大正7年10月1日には正式給水開始。11月3日、神崎水源地で竣工式が行なわれました。
事業の展開
大正6年制定の水道使用条例は、給水方法を使用目的により放任給水(定額制、家事・防火・公衆用水)と計量給水(従量制、銭湯などの営業・庭園用水・官公署・会社法人等)に区分し、さらに放任給水を専用栓と共用栓の2種に分類する料金設定としていましたが、大正9年には早くもこれを改定することになりました。その理由は、給水量の増加および物価上昇などにともなう取水・送水経費の増大でした。このため全般的に料金を改定するとともに、放任給水において定額制をとっていることが必要以上の水道水浪費を招いているとして、とくに家事用水を計量制に変更し、使用量の抑制をはかります。当時量水器が高価で一気に全給水栓を計量制に移行することができず、当面は契約件数が多い共用栓が計量化の対象とされました。
また、大正後期には神崎川の塩水化がすすみ、さらに夏期には水不足も発生しました。断水や時間給水による応急対策とともに、水源地の変更と拡張が検討されます。この結果、大正14年4月、市は小田村の4企業(富士製紙・麒麟麦酒〔きりんビール〕・大阪合同紡績・大日本セルロイド)と共同事業契約を結び、大阪市東淀川区柴島〔くにじま〕地先(新淀川西岸)において、新水源地の開発をすすめます。昭和3年(1928)4月、柴島から神崎川浄水場までの送水線工事が完成し、尼崎市の取水能力は大きく向上。この結果、神崎川の旧取水場は廃止されることになりました。こののち、昭和8年には水道普及率が98.2%に達し、全戸給水がほぼ実現しました。
当時の水道使用条例は、設置場所の土地または家屋所有者に限って給水設備請求を認めており、長屋などの共同住宅では共用栓が一般的でした。数字は『尼崎市史』第9巻より。
戻る社会事業
第一次大戦期、大阪や尼崎といった工業都市においては、労働者を中心に人口が増大し、都市部の密集化がすすみます。それとともに地価や家賃、米・燃料などの生活必需品価格が高騰し、都市住民の生活難が社会問題化します。さらに大戦後の反動不況が始まると、企業の人員整理により失業者が増える一方で、好況期の物価高騰は容易に鎮静化せず、労働者・俸給〔ほうきゅう〕生活者層を中心に一層の生活苦が広がり、これらに対処する社会事業が都市行政上の重要な施策課題となりました。
尼崎市においては、まず大正7年8月の米騒動発生を受けて、翌9月には旧城郭〔じょうかく〕内にバラック建ての市設物品販売所を設置し、食料品を中心に生活必需品の廉価販売を開始。戦後不況が訪れた大正9年には、市役所の庶務課から社会課を独立させて執行態勢を整え、失業問題に対処するため市立職業紹介所を旧城郭内に10月開設、市設物品販売所を整備・拡張して11月には公設市場と改称、さらに11年8月には勤労者層をおもな対象とする市立診療所を市役所内に開設するなど、各分野の社会事業を実施していきました。
市設住宅
尼崎市民を悩ませた都市問題のなかでも、住宅難はとりわけ深刻なもののひとつでした。大正9年、市はこれを解決するための施策として、起債により財源を確保し、東難波において市設住宅建設を開始します。大正13年9月までに木造瓦葺〔かわらぶき〕・スレート葺、平屋建・2階建など各種住宅26棟、116戸が完成。1棟1か所の共同水道栓が用意され、全戸電灯および建具・畳付きでした。家賃月額が最低6円72銭、最高18円48銭と、通常の借家よりかなり安価であったため申込者が殺到。借り手は俸給生活者がもっとも多く、次いで労働者や職人などでした。
当初好評だった市設住宅でしたが、やがて国道の開通にともない周辺環境が悪化したことなどにより転出者が相次ぎ、市は入居者を募集するようになりました。
下に掲載したのは、大正15年6月15日付の『尼崎市公報』に掲載された入居募集広告です。木造2階建て、6畳や4畳半などからなる2種類の間取りの長屋住宅で、家賃は月額15円12銭となっています。
当時の市内の大工や職人の日当が2円50銭から4円、市役所書記の平均月俸が約65円であったことから、こういった比較的安定した収入のある階層向けの住宅であったと考えられます。