近代編第4節/十五年戦争下の尼崎/この節を理解するために(佐賀朝)




銃後の農村風景、出征兵士留守宅農家の田植えを手伝う勤労奉仕の人々(昭和19年6月末、西川にて浅井栄氏撮影)
 後方に見えるのは神崎川堤防。男手の多くが徴兵や徴用などにより村をはなれるなか、銃後〔じゅうご〕の農作業を支えたのは女性たちでした。

 この節では、満州〔まんしゅう〕事変から日中全面戦争を経て第二次世界大戦・太平洋戦争の敗戦にいたる十五年戦争下の尼崎地域の様子を、あきらかにしていきます。

東アジア情勢と日本

  日清・日露戦争から第一次世界大戦を経て、東アジアにおける植民地支配国となった日本は、欧米諸国や日本による植民地分割に抵抗する中国の民族運動に直面していくことになります。大正10年(1921)には、欧米主要国と日本・中国によるワシントン会議が開かれ、中国での各国の「機会均等」と、世界的な軍拡競争の抑制が取り決められます。これらはいずれも、軍事大国化、中国への本格的進出をめざす日本にとって足かせとなりました。
 こうしたなか国内では、米英との協調と中国における既得権益〔きとくけんえき〕維持に重点を置く路線と、米英への依存打破、中国への軍事侵略強化をめざす路線の政治的対立が生じます。昭和3年(1928)に中国国民政府による国家統一が実現し、国権回復運動が強化されたことで満州(中国東北部)における日本の権益が不安定化すると、昭和6年9月、後者の立場に立つ関東軍中堅参謀らは謀略により満州事変を引き起こします。
  満州事変をきっかけとした米英との対立の激化は、昭和7年の「満州国」成立、それへの国際的非難と昭和8年の日本の国際連盟脱退へと行き着きます。国内では排外主義的世論が高まり、テロ活動も活発化するなか、昭和7年には海軍青年将校らが犬養毅〔いぬかいつよし〕首相を殺害する五・一五〔ご・いちご〕事件が起こり、政党政治に終止符が打たれました。こうして、軍部を担い手とする強硬路線が政治・外交の主導権を握り、軍備増強・軍需〔ぐんじゅ〕生産拡大路線へと突きすすんでいきます。

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重化学工業化と都市の変貌

  満州事変から日中全面戦争にかけての1930年代、尼崎地域においては明治以来の工業化が引き続きすすみました。尼崎築港(株)による臨海部埋め立てをはじめ工業用地の造成がすすめられ、工場新設も相次ぎます。その結果、鉄鋼・電力などを中核とする重化学工業地帯が確立され、大阪市大正区・此花〔このはな〕区・西淀川区といった大阪西部臨海工業地帯と一体となって、阪神工業地帯を形成していきました。
 大阪都市経済圏の膨張〔ぼうちょう〕は、尼崎地域の都市環境に対してもさまざまな影響をもたらしました。昭和9年、室戸台風による大きな被害が出ると、尼崎市から大庄〔おおしょう〕村にかけての臨海部に大規模な復興土地区画整理事業が実施されるなど、都市計画行政も本格化していきます。貧困・失業問題などに対処する社会事業や、煤〔ばい〕煙・水質汚濁〔おだく〕・地盤沈下などの公害問題への対策も徐々にすすめられました。こうしたなか、昭和11年4月1日には尼崎市と小田村が解消合併。また、東海道線や阪急神戸線の沿線では、新駅設置と周辺宅地開発がすすめられ、新たな市街地が形成されていきます。
 こういった都市行政を主導したのは、内務官僚出身の有吉實〔ありよしみのる〕市長でした。昭和10年6月11日に市長に就任し、小田村との合併をはさんで昭和18年まで在職。官僚主導の強力な市政を推しすすめました。
 このように都市化がすすむ一方で、昭和2年の金融恐慌〔きょうこう〕および昭和5年に始まる昭和恐慌のなか、工場における人員整理や労働条件の切り下げ、失業問題の深刻化や農村不況などを背景に、労働運動や農民組合運動が激しく燃え上がります。しかしながら、準戦時体制下の厳しい社会状況のもと、運動内部における左右の路線対立もあり、各分野の社会運動は無産政党運動も含めて徐々に退潮を余儀なくされていきました。

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総力戦体制下の尼崎

 昭和12年7月の盧溝橋〔ろこうきょう・ルゥコウチアオ〕事件をきっかけに、日本は中国との全面戦争に突入します。大量の兵力動員、軍需最優先の統制経済、情報統制をともなう国民精神総動員など、あらゆる人的・物的資源が戦争遂行のために動員されていきました。
 統制経済のもと、尼崎は重化学・軍需工業都市としての性格をさらに強めます。大規模工場の進出が相次ぎ、生産も飛躍的に増大。紡績をはじめとする民需産業部門も、徐々に軍需への転換を強いられました。
 日中戦争が長期化するなか、昭和15年10月には大政翼賛会〔たいせいよくさんかい〕が結成され、産業報国会や町内会・部落会などを通じて、全国民を統制していく翼賛体制が成立します。これにより、すべての政党や社会運動団体などが解散させられました。
 尼崎地域においても、日中全面戦争開始後は出征兵士を送り出す光景が各所で見られたほか、空襲に備えての防空演習や、不足し始めた生活必需品の配給が実施されていきます。昭和16年には町内会・隣保〔りんぽ〕という形で、地域組織も画一的に再編成されました。

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太平洋戦争へ

 日中戦争が中国側の抵抗や米英などの中国支援策により長期化する一方で、昭和14年にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まります。日中戦争の行き詰まり打開をめざす日本は昭和15年9月、ドイツ・イタリアとの間に三国軍事同盟を締結。同時に、中国への戦略物資供給源であるフランス領インドシナ北部に武力進駐し、16年7月には同南部へも進駐します。
 日本の南進策に米英は態度を硬化させ、石油・くず鉄などの対日輸出を全面禁止します。対立が決定的となるなか、昭和16年12月8日、日本陸軍がイギリス領マレー半島に上陸し、海軍はハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を攻撃。こうして太平洋戦争が始まりました。
 日本軍は緒戦こそ勝利を重ねますが、昭和17年6月のミッドウェー海戦に敗れた前後から徐々に守勢に立たされ、昭和19年にはビルマやフィリピンで敗退。同年8月に奪われたマリアナ諸島には、米軍B29戦略爆撃機部隊の基地が設けられ、北海道を除くほぼ日本本土全域への空襲が可能となりました。
 なお、開戦後間もない昭和17年2月11日、尼崎市は大庄村・立花村・武庫村と合併しています。小田村との合併と同じく有吉實市長が推進して実現したものでしたが、その後、有吉市長は人事面での専断や施策をめぐって市会と対立し、昭和18年3月17日をもって辞職。替わって同年7月12日、兵庫県知事の推せんにより、島根県知事・神戸市助役などの経歴を持つ八木林作〔りんさく〕が市長に就任し、敗戦をはさんで昭和21年11月20日まで務めました。

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空襲・戦災と敗戦

 かつてない総力戦のもと、人々は厳しい耐乏生活を強いられました。また戦争の長期化により犠牲者も増大していきます。太平洋戦争期間中を通しての、尼崎市と園田村の戦没者数(戦争により亡くなった軍人・軍属の人数)は、市に残された記録を合計すると2,636人となり、実数はこれをさらに上回るものであったと考えられます。
 一方、昭和19年に入ると、尼崎市では空襲に備えて防火帯をつくるための家屋疎開〔そかい〕や、学童疎開が実施されていきます。明治期以来の繁栄を誇った旧城下の本町〔ほんまち〕通りが、南側を撤去されて商店街としての形を失ってしまったのも、このときのことでした。昭和20年にはB29による空襲が本格化し、日本の主要都市が次々と焼け野原となるなか、大阪に隣接する軍需工業都市であった尼崎市も焼夷弾〔しょういだん〕空襲の目標とされ、大阪市街地とともに度重なる空襲を受けました。その被害は、臨海部の工業地帯よりも、むしろ市域南西部の一般市街地や住工混在地域に集中していました。
 こうして戦争遂行能力を奪われた日本は、昭和20年8月、広島・長崎への原爆投下とソ連参戦という事態のなか、無条件降伏を受け入れ、8月15日の敗戦を迎えることとなりました。

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