近代編第4節/十五年戦争下の尼崎1コラム/在日朝鮮人(堀内稔)
尼崎に来た朝鮮人
明治43年(1910)、日本は朝鮮を植民地にします。それによって、多くの朝鮮人が日本に渡ってくるようになりました。ただ朝鮮人の日本への渡航が本格化したのは、大正6年(1917)からです。第一次世界大戦による好景気で、労働力不足が生じたからです。一方朝鮮半島では、朝鮮総督府が推しすすめた土地調査事業によって、土地を失う農民が続出していました。
工場地帯であった尼崎にも、朝鮮人労働者がやってきました。新聞記事によると、岸本製釘所〔せいていしょ〕や大阪合同紡績神崎工場(後の東洋紡)をはじめ、尼崎市および付近の工場で働いている朝鮮人労働者は、大正7年の段階で男女合わせて800人近くに達したと言います。
しかし、大戦が終わってしばらくすると、不況が押し寄せてきます。まっ先に首を切られたのは、朝鮮人労働者でした。こうした労働者を救済する意図もあって、阪神間では二つの大規模な工事が行なわれます。ひとつは大正9年着工の武庫川改修工事で、もうひとつはそれより数年遅れて着工した阪神国道(現国道2号)建設工事です。どれくらいの朝鮮人労働者が働いていたのかは、工事の時期によって変化があり、新聞記事によってもまちまちですが、いずれの工事も全労働者の3割程度が朝鮮人だったと推定されます。
朝鮮人職工移入
尼崎市内各工場会社の職工は新設工場にて募集中の外は大抵依然として現場維持の形成なるが今回岸本製釘所は朝鮮慶尚南道より鮮人男工三百名又合同紡績神崎工場は咸鏡北道より同女工三百名募集の件を許可されたるが近くこれ等の男女職工は漸次移入さるゝ筈にて目下尼崎市及附近各工場其他に働きつゝある鮮人は男女合計八百人近くある由
(大正7年6月5日付『大阪毎日新聞』兵庫県付録より)
記事中の「鮮人」というのは、朝鮮人に対する差別的呼称です。明治43年の「日韓併合」以前は「韓人」「朝鮮人」と記される場合が多く、併合後は次第に「鮮人」と記され、日中戦争が本格化してからは「半島人」という呼称が使われるようになっていきます。
武庫村守部の朝鮮人集落
守部〔もりべ〕に朝鮮人が増え始めるのは、昭和5年(1930)以降のことになります。兵庫県学務部社会課発行の『兵庫県協和関係一般状況』(昭和11年)は、武庫川改修工事に従事した朝鮮人が逐次現場付近の村落に居住するようになり、その後工事の完成とともに大部分は他地方に移動したが、一部は守部にとどまり武庫川の砂利採取に従事し、親類知己〔ちき〕を呼び寄せ、さらに他の朝鮮人が流入して次第に膨張〔ぼうちょう〕していったと記述しています。武庫村では、当初農業労働力として朝鮮人の移住を歓迎していましたが、あまりに激しい増加と、低所得のため人数の割に税金が取れないことから厄介視〔やっかいし〕するようになったと言います(昭和8年7月7日付『神戸新聞』県下版)。
守部に住む朝鮮人の多くの生活基盤は、砂利採取でした。新聞によると、昭和8年時点で、武庫村だけで約千人、その他沿岸の町村を合わせると約2千人の朝鮮人が砂利採取により生活していました(昭和8年9月26日付『大阪毎日新聞』阪神版)。
守部の朝鮮人集落の生活については、次のような記述があります。「家屋とは名のみにて殆んどバラック建にてたゞ雨つゆを凌ぐに足るのみ、而も畳一畳に平均三・四人の状態にて衛生的設備等更らになし、近年に至り建築法の励行生活の向上等によりて漸次改造されつゝあり」(兵庫県協和教育研究会編『協和教育研究』昭和18年)。いかに貧しい生活をしていたかが、この一文からうかがえるでしょう。
昭和10年4月、朝鮮人子弟を対象とする教育機関として、関西普通学堂が守部に設立されました。武庫尋常高等小学校が、校舎が狭いことを理由に朝鮮人の入学を拒絶したことが発端となり、朝鮮人父兄の教育に対する強い熱意によって生まれました。しかし、学校とは名ばかりのお粗末な施設で、はじめは融和団体の事務所内に教室を置くといった状態でした。そのため、武庫村の朝鮮人児童のかなりの部分が、大庄〔おおしょう〕村など他地域の小学校に通っていました。ところが昭和10年6月、大庄村の小学校がやはり校舎が狭いことを理由に他村児童の収容を拒否し、守部から通学していた朝鮮人児童をすべて退学させたことから、朝鮮人児童の就学が大きな問題となります。そこで関西普通学堂の内容充実がはかられ、昭和14年に県の許可を得て学堂は武庫尋常高等小学校の分教場として経営されることになります。こうして守部には、朝鮮人だけを対象とする、全国的にも珍しい村立学校が生まれました。
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阪神消費組合
消費組合とは、現在で言えば生活協同組合にあたります。阪神消費組合は、尼崎に本部を置いた朝鮮人の組織で、昭和6年に設立されました。
昭和初期、尼崎には左翼系の朝陽同志会という朝鮮人組織があり、これが神戸の組織と連携して、昭和4年に兵庫県朝鮮労働組合(正式名称・在日本朝鮮労働総同盟兵庫労働組合)を組織します。しかし、昭和5年5月にはこの組合が解体され、共産党系の日本労働組合全国協議会(全協)に再編成されます。理由は、ひとことで言えば、民族よりも階級闘争を重視した理論の結果ということになりますが、朝鮮人にとっては受け入れがたいものでした。また、共産党系という非合法的組織への加入にも抵抗がありました。
それならば朝鮮人が加入しやすい組織をつくろう、ということで組織されたのが阪神消費組合です。これには全協への参加をためらっていた朝鮮人も数多く参加し、組織は急速に拡大していきます。組合は事務所を尼崎市築地本町に置き、西宮、芦屋、鳴尾、青木〔おおぎ〕など、朝鮮人が多く住む地域には支部も設立されました。
阪神消費組合の日常活動は、米、味噌、醤油、明太〔めんたい〕、とうがらし、大豆などを共同で仕入れて市価より2、3割安く売ることでした。日本人と朝鮮人とは食生活が異なっていましたから、こうした朝鮮人だけの消費組合の存在意義は大きなものでした。それが、活動が長続きした理由でもあるでしょう。こうした日常活動のほか、ニュースを発行したり、夜間部を設置して文字の普及活動なども行ないました。当時の朝鮮人の多くは、文字が読めなかったからです。このほか、朝鮮の水害救援をはじめ、室戸台風による被災者の救援活動なども行ないました。とりわけ罹災〔りさい〕民の住宅支援には力を入れ、立花村にバラック住宅を建てるなどの活動を行なっています。
さらに、阪神消費組合第5回大会の議案を参照してみましょう。大会は昭和10年3月17日午後6時より、尼崎市内の本町倶楽部〔ほんまちくらぶ〕で開催されました。大会では代議員150名の出席のもと、組織の拡大や運動の強化のほか、医療・死亡・結婚・出産・住宅に対する援助への取り組みが決議されました。このように阪神消費組合の事業は、阪神間に居住する朝鮮人民衆の日常的要求に密着し、広く受け入れられていきました。
〔参考文献〕
小野寺逸也「一九四〇年前後における在日朝鮮人問題の一斑」(『朝鮮研究』59、昭和42年3月)
堀内稔「阪神消費組合について」(『在日朝鮮人史研究』7、昭和55年12月)