近代編第1節/尼崎の明治維新3/明治初期の地方行政制度(山崎隆三・地域研究史料館)




維新政府による戸籍の編成

 近世の宗門改めによる領民把握に替えて、戸籍制度を確立して国民の実態を掌握していくことは、近代国家をめざす維新政府にとって重要な施策課題のひとつでした。戸籍編成はまず政府直轄領の村々で実施され、現尼崎市域においても、明治4年(1871)に作成された「兵庫県戸籍」と呼ばれる直轄領の戸籍帳が残っている例があります。
 しかしながら、この時期の戸籍帳は士族・平民など身分別に作成されており、宗旨を記すなど、未だ旧来の宗門改帳に近い内容・性格を色濃く残していました。さらには、尼崎藩領をはじめ直轄領以外の村々では、引き続き領主別の宗門改帳が作成されていました。
  明治4年7月の廃藩置県〔はいはんちけん〕に先立って、同年4月4日、戸籍法が公布されます。これにより、数か町村を統合した戸籍区が定められ、責任者として戸長〔こちょう〕(市街地などにおいてはさらに副戸長)を任命し、戸籍編成の準備がすすめられます。そのうえで、廃藩置県とそれに続く府県統廃合を経て、明治5年に全国統一的な戸籍が作成されました。作成年の干支〔えと〕にちなんで、「壬申〔じんしん〕戸籍」と呼ばれています。明治4年以前の直轄領の戸籍とは異なり、身分別ではなく居住地ごとに作成されましたが、身分の族称〔ぞくしょう〕・職業・氏神・壇那〔だんな〕寺などの記載はなおも残されました。明治19年に戸籍制度が改正されるまで使用され、徴兵制・学制〔がくせい〕・税制などの諸施策を実施するための基本台帳的役割を果たしました。
  戸籍編成の準備段階であった明治4年、賤民〔せんみん〕身分を廃止する太政官〔だじょうかん〕布告が公布されます。これにより戸籍上の差別的取扱いを廃止することが通達されますが、地方によってはこれが徹底せず差別呼称がそのまま記載される例があったと言われており、このため今日、壬申戸籍は各地方の法務局において厳重に保管され、その閲覧はいっさい認められていません。

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「穢多・非人等の称廃止令」の布告

  明治4年8月28日の太政官布告により、近世以来の賤民身分は廃止されました。一般に「解放令」と呼ばれるこの布告は、一般国民向け(第448)と府県向け(第449)の2種類が公布されました。

第448 穢多〔えた〕非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共
平民同様タルヘキ事(第449引用省略)

 これにより旧賤民身分の人々は、法的には平民と同等に扱われることになります。長年差別に苦しんできた人々はこうした動きを歓迎しますが、解放令を含む一連の新政に反対する農民一揆が頻発〔ひんぱつ〕するなか、少なからぬ被差別部落が襲撃され、人々が殺傷され家屋が放火・破壊されるという事態も生じました。しかもこの布告は形式的に賤民身分を廃止したに過ぎず、彼らの社会的地位を向上させるための権利を保障したものではありませんでした。府県向けの布告第449により、近世には貢租を免除されていた被差別部落の土地が課税対象とされたほか、身分的特権として認められていた、死亡した牛馬を処理して皮などを加工する独占的権利も職業的自由の名のもとに否定されます。その一方で、被差別部落住民の多くは近代的職業からも排除され、引き続き過酷な貧困のもとに置かれ続けることとなります。
 こうして旧賤民身分に対する差別は消滅することなく、むしろ近代社会に深く根を下ろしていく結果となりました。市内のある同和地区には「解放令」を喜んだ被差別部落住民が本村にあいさつに出かけたところ、穢〔けが〕れを落とすためと称して冷たい川に入ることを強いられ、従ってもなお入村を拒まれたという伝承が伝えられています。

〔参考文献〕
上杉聰著『明治維新と賤民廃止令』(解放出版社、平成2年)
『尼崎部落解放史』本編、史料編1・2(社団法人尼崎同和問題啓発促進協会、昭和63〜平成2年)

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兵庫県の区制の独自性

  戸籍編成のため設けられた戸籍区と戸長は、地域の基礎単位である町村と政府地方機関である府県の間の中間機能を果たす最初の区制であり、従来の領主ごとに異なっていた地域支配制度に替わる、近代的な地方行政機構の出発点となります。
  明治5年2月、尼崎県などの統合を終えた第二次兵庫県は、戸籍区に替えて県下を50区に再編し、各区に戸長(年番戸長)を置きます。同年4月、政府は庄屋・年寄などの村役人を廃止し、さらに戸籍法による区・戸長の廃止を打ち出します。これを受けて6月、兵庫県は旧来の庄屋を戸長、年寄を副戸長とし、各区の年番戸長と区別する意味で何区何番戸長と呼称しました。さらに8月には50区を19区に編成し直し、各区には新たに、町村の選挙により推せんされた者のなかから任命した区長を置きました。
  こうして兵庫県においては、県−区−町村という地方制度が整備されていきます。この時期多くの府県は、おおむね郡の単位である場合が多い大区と、数か町村をたばねた小区という2段階の行政単位からなる大区・小区制をとりますが、この制度はかならずしも有効に機能せず、明治11年の地方制度改正によりふたたび町村は末端行政単位と位置付けられます。兵庫県の区制は、これを先取りするものでした。

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地方民会の開設

  こういった兵庫県の独自性は、全国にさきがけて地方民会(地方が独自に設置する、府県・区・町村の議会)を開設した点にも表れています。板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出する明治7年より早く、兵庫県は明治6年9月に「民会議事方法撮要」を各町村に回達。さらに11月には「撮要」の県・区会に関する部分を省略した「民会議事章程略」を「町村会議事心得」とともに公布し、各町村において不動産を所有する16歳以上の戸主の互選により任期1年の議事役10〜20人を選び、戸長または副戸長が就任する議長とともに構成する町村会を月1回開催することを定めます。続いて明治7年5月には「区会議事細則」を布達し、区長または副区長を議長とし、町村からの議事役2名ずつ(戸長および、町村会議事役の互選)を構成員とする区会の年4回開催を定め、8年9月には「県会議員選挙規則」を布達し、区内の不動産所有者を有権者とする選挙により選ばれた議員と区長からなる県会を設置します。
 県が定めたとおり、すべての町村に町村会が実現したのかどうかは不明です。また区会・県会においては県任命の区長が議長や議員を務めたほか、県会では県令または県参事が務める議長が議決取消を命ずることができるなどといった制約はありましたが、全国的に見てもきわめて早い時期に、町村会・区会・県会を通して民意を反映する仕組みが実現していました。
 このような初期兵庫県における先進的諸施策実現の背景には、県令・神田孝平〔たかひら〕の開明性と同時に、近世における実綿〔みわた〕・菜種・肥料売買の自由を求める国訴(こくそ・くにそ)などを通じて蓄積された、村々の村内合意にもとづく広域的連合の経験や伝統がありました。
 それと同時に、明治維新以降の地域構造の変化のなか、町村内における利害対立は近世社会とは異なる様相を見せ始め、もはや旧来の寄り合いなどでは解決できなくなりつつありました。こうしたことから、ことに経済的先進地の町村において合意形成・意思決定の新たなルール作りが必要とされたことも、町村会の早期実現の大きな要因となったと考えられます。
 なお、明治4年の廃藩置県直後の府県統廃合に続いて、明治9年、政府はふたたび大規模な統廃合を実施。これにより従来の摂津5郡に飾磨〔しかま〕県(播磨)、豊岡県の一部(丹波のうち多紀〔たき〕郡・氷上〔ひかみ〕郡、但馬〔たじま〕)、名東〔めいとう〕県(淡路)を加え、現在の兵庫県域となりました。

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兵庫県が定めた民会規則

 下の写真は、明治6年に兵庫県が定めた地方民会の規則である「民会議事方法撮要〔さつよう〕」の一部です。村々にも回達されたため、村役人が作成した写しが残ったものと思われます。
  「撮要」は上記のように県会区会とともに町村会を置くことを定め、議事役(議員)の人数や選挙権の要件、戸長が議長を務めることなどを規定したほか、町村会において協議決定すべき事項として旧弊〔きゅうへい〕の除去と開化の推進、徴税・支出等の財務、町村合併、戸長以下の人事と給料、学校、番人、区会議員選挙、水利・土木、救貧、防火防犯、戸籍などを明記していました。
 写真の部分より後段の第三章では、入札〔いれふだ〕(投票)の方法や入札箱の仕様、開票とその結果判定・記録方法などが具体的に記されています。明治維新後、住民自治の議会制度をはじめて発足させるため、県としても実施方法を細かく指示したわけですが、近世においてすでに村役人選出などを入札により行なっていた村もあり、そういった村々にとって「選挙」はあながち未経験のことではありませんでした。

「兵庫県民会議事方法撮要写し」(地域研究史料館蔵、橋本治左衛門氏文書(1))

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地方三新法 

  明治11年7月、政府は郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則という、いわゆる地方三新法〔さんしんぽう〕を公布します。自由民権運動に対抗して地方行政を改革・強化する制度改革であり、また近世以来の末端行政単位である町村の重要性を再認識した結果、ふたたび行政組織として位置付けるものでした。
 郡区町村編制法はその名のとおり、従来の大区・小区に替えて古来の郡を中間単位とし、その下に町村を位置付けるとともに、東京・大阪・神戸といった都市域への区の設置を規定します。これにより、兵庫県においても町村に戸長役場を設けますが、明治13年以降は数か町村による連合戸長役場制へと移行します。また同法の規定により郡には官選の郡長が置かれ、川辺郡役所が伊丹町に、武庫郡役所が西宮町に開設されました。武庫郡役所は明治13年12月の武庫郡・菟原〔うはら〕郡合併により、武庫菟原郡役所となりました。  
  なおこの時期、現市域の数か村において、合併あるいは分村が取り沙汰されています。明治14年12月に岡院〔ごいん〕と万多羅寺〔まんだらじ〕が合併して御園〔みその〕村となった事例や、16年8月に東長洲〔ながす〕と中長洲が合併して長洲村となった事例は、土地の錯綜〔さくそう〕を解消する必要に迫られたものと考えられます。逆に上ノ島〔かみのしま〕の場合、明治14年に一村戸長役場を認められ戸長公選を指示されると、本村と旧皮多〔かわた〕村の分村を願い出ています。双方惣代が連名で県への願書を提出しており、旧皮多村からの戸長選出をきらう本村側の意識と、差別に抗して自立をめざす旧皮多村の願いの結果ではないかと考えられます。実現しなかったこの分村願いには、被差別部落をめぐる当時の時代状況が表れていると言えるでしょう。

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地方議会の開設

  地方三新法のひとつである府県会規則に続いて、明治13年4月、区町村会法が公布されます。これにより、府県が独自に設ける地方民会に替わって、全国的な統一規定による府県会・区町村会が設置されることとなります。三新法以前に町村会が発足していた兵庫県では、区町村会法より早く明治12年4月に「町村会規則」と「数町村連合会規則」を公布し、20歳以上の土地を所有する男子による公選の町村会設置を規定します。また、郡区町村編制法は郡会設置を定めていませんでしたが、武庫郡の全郡町村連合会が明治13年、川辺郡においても明治10年代前半と、兵庫県内でも早期に事実上の郡会が発足し、郡制(明治23年実施)による明治29年の郡会開設よりはるか以前に地方議会として機能していました。
 また、三新法のひとつである府県会規則により、県会議員も新たに選出されます。25歳以上、地租年額5円以上納付の男子が選挙権を有しており、被選挙権は地租年額10円以上納付が要件でした。兵庫県会の全議員定数は74と定められ、そのうち川辺郡は定数3、武庫郡は2が割り振られます。明治12年2〜3月に郡区単位で行なわれた選挙により選ばれたのは、神戸区の2人を除いて郡部選出議員であり、初期の県会においては、都市部に重点を置く県の提案がくつがえされるケースが珍しくありませんでした。明治12年5〜6月の第1回県会においては、神戸師範学校費・神戸商業講習所費の全額削除や、原案になかった小学校補助費の計上、区部の1戸あたり戸数割負担額を郡部より高額とするなどの予算修正が実現しています。  
  これに対して神戸区から強い是正要望が出された結果、明治14年には神戸区の定数が2人から12人に増員され、さらに県会に区部会・郡部会を設けてそれぞれの課題を審議し、区・郡に共通する議題のみを県会において取り上げる三部制が実施されます。同時にこの時期、明治12年に県会が設置された当初は優勢であった自由民権派が勢いを失い、県会の大勢は県令に対して融和的な方向へと変化していきます。
 なお、明治12年2〜3月の第1回県会選挙において、現尼崎市域から選出された議員はありませんでしたが、15年6月の補欠選挙では別所村の士族小島〔おじま〕廉平、16年2月と18年12月の定期改選では東難波〔なにわ〕村の上村文三郎、16年6月の補欠選挙と17年5月の定期改選では梶ヶ島村の井関勘十郎が、それぞれ当選しています。兵庫県下の自由民権運動は、自由党系の運動が主として丹波・但馬・淡路などの地域において旺盛に展開されたのに対して、現市域を含む西摂地域では改進党系の活動が活発であったことがわかっており、県議となった上村文三郎も立憲改進党員でした。

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兵庫県会議員の第1回選挙

  

 明治11年7月に公布された府県会規則にもとづく第1回の兵庫県会議員選挙は、12年2月から3月にかけて各郡区ごとに実施されます。武庫郡の場合は、3月5日に各町村の戸長以下3人に西宮町の郡役所まで投票を持参させて、開票することとなりました。
 下の写真は、生津〔なまづ〕村・吉田久氏文書(地域研究史料館蔵)のうち明治12年「回達写および諸届綴」中の、郡長からの開票結果回達を写したものの冒頭部分です。この史料には、広田村(現西宮市)の「松田半十良」以下、得票者計37人が上位順に列記されており、うち17人が西宮町の住人でした。また下位18人の得票数は一桁に過ぎず、そのうち9人はわずか1票でした。被選挙権が地租10円以上納付と限られていることから、得票したのはいずれも富裕な庄屋クラスや西宮町の商人だったと考えられます。
 この選挙において、武庫郡の有権者1,300人余りの有効投票数が2,544(各人2票の投票権を持つ、無効票102)と、ほぼ100%の投票率でした。定数2の武庫郡においては、上位2名、すなわち広田村の松田と、同じく現西宮市域の高木村「高塚武一良」が当選しました。松田は、明治16年に県議となる東難波村の上村文三郎と同じく、立憲改進党に属していました。

明治12年「回達写および諸届綴」(地域研究史料館蔵、吉田久氏文書)

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地方財政制度の確立

  地方三新法のもうひとつの眼目は、地方税規則により府県財政の安定化を図る点にありました。このため地方税(府県税)と協議費(町村費)を分離し、従来の営業税・雑種税に加えて、地租割〔ちそわり〕(地価割、国税である地租への付加税)と戸数割を地方税と定めます。明治10年代の兵庫県の歳入においては、地租割が50%以上と最大の比率を占めており、15%程度の戸数割がこれに次ぎました。残りの営業税・雑種税は15〜20%程度でしたが、尼崎町内で徴収される地方税額に占める営業税・雑種税の比率は高く、明治10年代後半には60〜70%程度でした。尼崎町の都市的性格が強く、商業経済が活発であったことがわかります。
  一方、協議費の税目は定められず、賦課〔ふか〕は町村の協議・決定にゆだねられました。明治10年代の尼崎町の場合、主として戸数割・地租割・営業割といった地方税への付加税が税源とされています。一方、町協議費の歳出においては土木費・衛生費・教育費・戸長役場費などが多くを占めており、町はこういったさまざまな行政経費を負担していかねばなりませんでした。
  こういった実情は郡部も同様であり、たとえば下坂部〔しもさかべ〕村ほか17か村が明治15年以降、伊丹警察署坂部分署設置経費を負担するなど、とぼしい財源のなかから新たな行政経費の捻出を強いられました。
 こうして、地方税規則により府県財政が新たな税源を得て安定する一方で、町村は主要財源を失い行政運営に困難を生じていきます。つまり、町村財政の窮乏という犠牲の上に国家・府県財政が成り立つという、中央集権的財政構造が如実〔にょじつ〕に表れる形となりました。

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