近代編第3節/工業都市尼崎の形成2/第一次世界大戦期の経済発展(山崎隆三・地域研究史料館)
大正3年(1914)7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発〔ぼっぱつ〕します。開戦直後は先行き不安から物価や株価が暴落しますが、翌大正4年後半には交戦諸国から軍需〔ぐんじゅ〕品の注文が殺到し、さらに交戦国とアジア・アフリカ間の貿易が途絶えたため、日本の輸出経済は大幅な伸びを示しました。このことが海運業の活況をもたらすとともに、各種製造業の生産活動を刺激し、かつて日本が経験したことのない好景気となります。
工場の進出、工業生産の増大
尼崎でも既設工場の拡張・増産に加えて、財閥系企業などが相次いで進出し、工場を建設していきました。中在家〔なかざいけ〕町に本社を置き、新城屋新田に工場を建設して明治42年(1909)に操業を開始した三菱財閥系の旭硝子〔ガラス〕の場合、大戦期以前は赤字経営が続いていましたが、大戦とともにベルギーなどヨーロッパ諸国からのガラス輸入が途絶えたため需要が急増し、経営が好転。さらに従来輸入に依存していた耐火煉瓦〔たいかれんが〕の自給工場を建設し、高い利益を上げるに至ります。また、明治45年には古河財閥系の横浜電線製造が新城屋新田に大阪工場を新設して操業を開始し、大正9年には古河鉱業尼崎工場とともに大阪市西区で操業していた日本電線製造と合併して、日本電線製造という社名のもと新発足しました
一方、大阪の有力鉄鋼商である岸本家は明治34年、新城屋新田に岸本製鉄所を設立し、44年には釘の国産化を目指して同地に岸本製釘所〔せいていしょ〕を開設します。大戦終結後の大正8年、岸本の設備すべてを住友伸銅所が買収。これが住友の尼崎進出の端緒となりました。このほか大正6年には久保田鉄工所尼崎工場が、やはり新城屋新田において操業を開始しています。こうして大戦期の尼崎では、財閥系資本を中心に重化学工業部門の工場立地がすすみ、工業都市の基礎が築かれました。
繊維産業の部門では、尼崎紡績が旧工場に隣接して小田村杭瀬に新工場を建設し、大正6年完成。大阪合同紡績神崎工場も第二紡織工場を大正5年に完成し、同8年には精紡機10万錘〔すい〕、撚糸〔ねんし〕機1万4千錘、織機〔しょっき〕1,441台を備えた大紡織工場へと成長しました。
このほか、大戦期には小田村に麒麟麦酒〔きりんビール〕神崎工場、日本スピンドル神崎工場、関西ペイント、中外護謨〔ゴム〕などが設立され、大庄〔おおしょう〕村でも乾〔いぬい〕鉄線が操業を開始しています。こうして尼崎地域は、いわゆる「大戦景気」による大好況を迎えることになりました。
土地開発と築港計画
大戦景気中は海運・造船・化学・紡績といった製造業に向かっていた株式投資熱は、大戦終結後はさらに土地開発へと向かいます。交通が整備され、重化学工業化がすすみつつあった現尼崎市域南部の開発が有望視され、相次いで設立された土地会社が住宅地や工場用地の開発と経営に乗り出します。その具体的な様子を、大正8年設立の尼崎土地株式会社を例にとって見てみることとしましょう。
尼崎土地は、尼いも畑が広がっていた臨海部の一画、西高洲〔たかす〕新田と東浜新田(現西高洲町・東浜町)の土地を買収し、工場用地として経営することを目的として設立されました(資本金500万円、取締役社長・南郷〔なんごう〕三郎)。同社は経営地の道路を整備し、運河を掘削〔くっさく〕するなど開発をすすめます。この土地にいちはやく目をつけた阪神電鉄は、家庭における電気利用が普及し、さらに工業用電力が不足するなか、庄下〔しょうげ〕川沿いの本社に隣接する旧式の尼崎発電所を廃止し、新たに東浜発電所を大正10年に開設しています。
このようにして臨海部の工業化がすすむなか、港湾施設の整備が重要な都市課題となります。すでに大正初期以来、神戸に本拠を置く商社・鈴木商店が、大庄村地先を中心に港湾を開発する丸島築港計画を公表し、事業をすすめつつありました(後掲の図参照)。しかしながら、これにより旧来の尼崎港の繁栄が失われることを懸念した尼崎町有力者らの反対や、資金不足が原因となって、鈴木商店の計画は挫折〔ざせつ〕します。その後、県が尼崎港修築と庄下川両岸の埋め立て工事を開始。尼崎土地は、資金を負担し埋め立て地の売却を受けるという条件で、事業に参加します。しかしながら、この事業も未完に終わり、本格的な港湾開発が実現するのは、昭和年代に入って以降のこととなります。
第一次世界大戦期における現尼崎市域南部の主要工場と開発計画
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尼崎信用組合の設立
大正9年春、尼崎にも大戦景気の反動である戦後恐慌〔きょうこう〕が訪れ、工場の閉鎖や操業短縮が多発しました。不況に苦しむ中小商工業者にとっては、低利資金の獲得が切実な課題となります。
こうしたなか、大正10年、地元零細資金の融資還元をかかげて、中江済・松尾高一〔たかいち〕らが尼崎信用組合を設立します。尼崎共立銀行が藤田銀行の系列下に入るなど、尼崎の金融機関が地元色を薄めるなか、同組合は地元密着の金融事業を展開し、第二次世界大戦後は信用金庫へと改組して今日に至っています。
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