近代編第2節/尼崎の町と村/この節を理解するために(山崎隆三・地域研究史料館)
明治維新期に続く明治10年代、政府は内政の面で、ふたつの大きな課題に直面していました。ひとつは、国家財政の確立と富国強兵・殖産興業〔しょくさんこうぎょう〕の推進という課題、もうひとつは、自由民権運動や国会開設要求と対抗しつつ、国と地方における近代的・中央集権的な統治システムを確立していくことでした。
明治10年代の経済変動
前者については、明治6年(1873)に大蔵卿に就任した大隈重信のもと、地租改正などの改革を経て財政・金融の基盤が整えられ、政府は積極的な資金供給による殖産興業政策を推進していきます。しかしながら、内国債および紙幣の過剰発行に加えて、明治10年の西南戦争における軍事支出がかさみ、明治10年代に入ると国家財政が悪化。国内経済は、激しいインフレーションに見舞われます。この結果、政府は財政政策の見直し、国債・紙幣の整理・償還と緊縮財政への転換を迫られます。
折しも、自由民権運動・国会開設要求が各地で激しさを増すなか、それへの対処をめぐって大隈らが政府から追放されるという、明治14年の政変が起こります。大隈の後を受け継いで大蔵卿となった松方正義〔まさよし〕は、徹底的な紙幣整理と厳しい緊縮財政政策を断行。加えて明治15年の欧米における経済恐慌〔きょうこう〕の影響もあり、明治17年には「松方デフレ」と呼ばれる激しいデフレーションが始まりました。
インフレからデフレへという極端な経済変動は、国民生活を直撃します。尼崎町においては町民の貧窮〔ひんきゅう〕化がすすみ、わけても旧士族層の経済的没落は決定的となりました。これら貧困層が困窮〔こんきゅう〕する一方で、貧困化した住民が失った宅地が一部の富裕層のもとに蓄積され、大規模な宅地地主が出現します。
こういった階層分解の進行という事態は、農村部においても同様でした。中・下層農民が土地を失い小作農化する一方で、農地の所有が一部の最上層農民や商業資本・高利貸資本に集中し、都市の商人などが在村する上層農民を名代人〔みょうだいにん〕として小作経営を管理させる、いわゆる不在地主経営が広がる結果となりました。
明治憲法体制の確立と地方制度
征韓〔せいかん〕論をめぐる対立から政府をはなれた前参議の板垣退助らによる、明治7年の民撰議院設立建白書提出に始まる自由民権運動は、明治14年結党の自由党、15年結党の立憲改進党などによって担われました。主として農村に依拠する自由党に対して、立憲改進党は都市部の知識人や地方商工業者などを基盤としており、尼崎を含む阪神地域は、同党の活動が盛んな地域のひとつでした。
明治10年代には、この両党による国会開設要求運動が展開されます。さらに松方デフレのもと農民の貧窮化がすすむと、関東・東北・東海地方などでは借金の棒引きや取り上げられた土地の返還を求め、さらには政府の悪政に抗議して農民らが蜂起〔ほうき〕する激化事件が発生。これらに対して政府は弾圧・分裂政策をとる一方で、憲法制定・国会開設の準備をすすめます。
この結果、明治22年に制定された大日本帝国憲法においては、天皇の強大な権力のもと、官僚と軍を中心とする国家体制が定められ、国民に付与される基本的人権は厳しく制限されます。翌23年に設置された帝国議会においても、衆議院の選挙権・被選挙権は性別や納税額などによって制限され、実質的な参政権を有したのは、明治10年代の経済変動を通じて形成された地主・資産家層にほかなりませんでした。
明治憲法体制の成立とともに、明治22年4月から市制町村制が順次施行され、翌23年5月には府県制・郡制が公布されます。そこにおいて意図されたのは、地方における官僚統治機構の実現、近代化・富国強兵に向けた国家による地方統制の確立でした。
町村制の施行により、明治2年4月1日、現尼崎市域においても旧来の戸長〔こちょう〕役場区域を再編成して、尼崎町・小田村・大庄〔おおしょう〕村・立花村・武庫村・園田村が設置されます。それぞれにおいて、制限選挙のもと町・村会議員が選ばれ、さらに町・村会議員により町・村長が選ばれました。この当時、旧城下町においてしばしば見られたように、尼崎町においても旧士族派と町人派の間の利害対立を背景とした、町政・町会を舞台とする激しい派閥対立・政治抗争が起こりました。
企業勃興
厳しいデフレ不況が続いた明治10年代でしたが、紙幣整理がすすんだ結果、10年代末には物価が下落し通貨価値が安定します。やがて、為替〔かわせ〕相場が円安となり輸出が伸びたことがきっかけとなって、景気が好転。日本銀行の低金利政策による豊富な資金供給のもと、鉄道・紡績・鉱山業などを中心に起業ブームが起こります。経済変動を通じて形成された膨大〔ぼうだい〕な失業・半失業状態の貧困層が、新たに起こる産業への主要な労働力供給源となりました。
尼崎地域においても、尼崎銀行(明治22年設立)、尼崎融通〔ゆうずう〕(明治26年設立、のちに尼崎共立銀行となる)、川辺馬車鉄道(明治24年開通、のち摂津鉄道となり、さらに阪鶴〔はんかく〕鉄道に買収される)、明治14年設立の慈恵〔じけい〕社をはじめとするマッチ工場数社などが、相次いで設立されます。なかでも明治22年6月に設立が認可され、翌23年に工場を完成して操業を開始した尼崎紡績は、尼崎地域初の本格的大規模工場であり、同社の成功がその後の工業地帯化の第一歩となりました。
日清戦争と戦後経営
明治27年、かねてから朝鮮政府への清国の影響を排除し、朝鮮を支配下に置くことを目論〔もくろ〕んでいた日本は、7月25日の豊島〔ブンド〕沖海戦をきっかけとして清国と開戦するに至ります。こうして始まった日清戦争は日本の勝利に終わり、翌28年4月には清国による朝鮮の独立承認、遼東〔リャオトン〕半島・台湾・澎湖島〔ボンフータオ〕の日本への割譲〔かつじょう〕、日本への賠償金2億両(約3億円)支払いなどの条件で講和条約が結ばれました。
ただし、これらの講和条件のうち、遼東半島割譲に対してロシア・ドイツ・フランスが反対する三国干渉があり、日本はやむなくこれを受諾。こののち日本政府は「臥薪嘗胆〔がしんしょうたん〕」のスローガンをかかげて、増税と清国からの賠償金を財源とする、より一層の軍備拡張・富国強兵政策へと突きすすむことになります。このため日清戦後経営においては、陸海軍工廠〔こうしょう〕・製鉄・鉄道・海運・造船といった軍需〔ぐんじゅ〕関連部門が、重点的な資金配分を受けて強化されることになりました。
これらの部門の原燃料・機械設備輸入増大に加えて、明治30年に銀本位制から金本位制に移行したため、銀価の長期下落による円安の効果が失われ、貿易収支は日清戦争までの均衡〔きんこう〕・やや出超から入超の恒常化へと移行します。この貿易不均衡をカバーし、日清戦争後の経済成長を下支えしたのは、主としてイギリスで募集された外債でした。金本位制は、欧米と共通の貨幣制度を整備したうえで、国際市場に参入し外資を導入するという意図のもとに実施されたものでした。
戦後経営下、軍需部門が伸びる一方で、清国への輸出産業であるマッチや民間需要向けの紡績といった尼崎地域の製造業は、かならずしも順調ではありませんでした。明治30年代の不況下には休業・倒産が相次ぐなか、明治37年の日露戦争と、その後の重化学工業化の時代を迎えることになります。