近代編第3節/工業都市尼崎の形成4/都市問題の発生(島田克彦)




工業化と人口の増大

 明治末期から大正初期にかけて、尼崎町や小田村では5年間で3割から4割という人口増加率を記録します。第一次大戦後、この傾向はさらに顕著となり、特に小田村では明治43年(1910)の7,200人から大正9年(1920)には1万6,700人と、10年間で2倍以上に増加しています。日露戦後から第一次世界大戦後にかけて、現尼崎市域南部に会社・工場の設立が相次ぎ、労働者を中心に大量の人口流入があったことによるものでした。
 大正12年に小田村が発行した『小田のしるべ』に記された、大正11年現在の各大字人口を比較すると、大阪合同紡績神崎工場があった今福では寄宿舎に多くの女子労働者がいたこともあって、全人口のうち女性が68.5%を占めました。一方、長洲〔ながす〕・金楽寺・常光寺・梶ヶ島では男性が57〜8%を占めるほか、全17大字のうち9大字で男性比率が53%以上となっており、周辺の工場で働く単身の男子労働者が多く居住していた様子がうかがわれます。
 一方、現市域北部の武庫村・立花村・園田村では人口の増加が相対的に少なく、下のグラフにあるように、職業構成は農業の比率が圧倒的でした。北部には依然として農村地帯が広がっており、工業都市へと変貌〔へんぼう〕しつつある南部とは対照的な地域特性を示していました。

大正9年の各市村就業者の職業別構成

『大正九年国勢調査報告』により作成

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流入した人々

 工業化しつつある尼崎地域の新たな住民となったのは、どういう人々だったのでしょうか。
 日露戦後から第一次大戦直前までは、大阪府や川辺郡・武庫郡など近辺からの入寄留〔きりゅう〕者(各本籍地より来住した居住者)が高い比率を示していました。ところが大戦期になると、流入者の約6割は九州地方をはじめ、四国・中国・北陸といった遠隔地の出身者で占められるようになります。なかでも鹿児島県出身者の比率は高く、大正12年の兵庫県の調査によれば、尼崎市内のおもな工場で働く労働者のおよそ5人にひとりにのぼっていました。
 また、朝鮮人の尼崎への流入が始まるのも、この時期の特徴のひとつです。日本は明治43年に朝鮮を併合し、植民地政策により土地を失った朝鮮人の日本への移住が大正後期以降本格化します。尼崎地域では大阪製麻〔せいま〕(小田村長洲)や関西ペイント(小田村神崎)、乾〔いぬい〕鉄線(大庄〔おおしょう〕村道意〔どい〕新田)といった工場や、武庫川改修工事などの土木作業現場において、多くの朝鮮人が働いていたことがわかっています(本編第4節1コラム参照)

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工場で働く人々

 現尼崎市域南部への工場立地にともなって、労働者数は飛躍的に増大しました。



(1)大阪合同紡績神崎工場(大正〜昭和初期頃発行の同社絵はがきより)
 紡績・織布兼営。大正9年の段階で2千人を超える女子労働者が働いていました。



(2)日本木管(大正5年発行『尼崎市現勢史』より)
 紡績用の木管を製造していました。



(3)旭硝子〔ガラス〕尼崎工場から製品を運び出す労働者(大正3年発行の同社絵はがきより)
 こういった荷役〔にやく〕仕事に従事する人々もまた、尼崎の工業生産を支えました。



(4)旭硝子尼崎工場内部(大正3年発行の同社絵はがきより)
 第一次大戦期、労働者数は700人を超えました。板ガラスをカットしている職工の横顔には、まだ少年の面影が残っています。



(5)阪神電鉄尼崎機械工場(明治39年発行の同社絵はがきより)


写真を掲載した各工場の位置

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過密化する都市

 このように、尼崎町・市や小田村南部を中心に人口の集中がすすんだ結果、人々の生活に関わるさまざまな都市問題が生じました。そのひとつが、都市の過密化です。尼崎の旧城下町は、明治末期にはすでに人口が過密となり、住宅が不足したため家賃が高騰〔こうとう〕。借家人層は住宅難に見舞われることになりました。明治44年には尼崎町立学校教員に対して、また大正2年には町吏員〔りいん〕に対して、住宅手当が支給されることになります。近年物価が高騰し家賃も値上がりしているので、「薄給者〔はっきゅうしゃ〕」(給料の安い者)は生計を立てるのがむずかしいというのが町会への提案理由であり、当時の住宅事情の一端がうかがわれます。
 都市の過密状態は、小学校教育にも影響を及ぼしました。日露戦争期から就学率が向上して児童数が増加し、明治41年度には義務教育年限が従来の4年から6年に延長されたこともあって、教室が不足するようになります。それを補うための二部授業(学級を2分割し、同じ教室を異なった時間に利用して授業を行なう制度)が尼崎町立の各小学校や立花尋常小学校、小田第一尋常小学校などで実施されました。
 尼崎町では明治末期から大正初期にかけて、第三尋常小学校の校舎改築などによって収容力が上昇し、二部授業はいったん解消します。しかし大正6年には講堂や特別教室を普通教室にあて、また大正7年には第2学年以下を二部授業としなければ児童を収容できない状態へと逆戻りしてしまいます。大正9年には尼崎町立小学校全82学級のうち34学級が二部授業となり、小学校の過密はピークを迎えました。

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公害と衛生問題

 尼崎町・市や小田村南部では工場の立地が相次いだため、工場排水や煤〔ばい〕煙が環境を悪化させつつありました。たとえば、かつては子供たちが泳ぎ、鯉つかみができるほど澄んでいた庄下〔しょうげ〕川は、東難波〔なにわ〕地内に造られた大阪板紙が大正4年に操業を開始して以来、排水による汚染のため沿岸の田の稲が枯死するなどの被害が出るようになります。同様の汚染は、流域に大阪繊維工業などがある神崎川や、麒麟麦酒〔きりんビール〕神崎工場周辺にも発生しました。
 神崎川流域ではこのほか井戸水の塩水化や、川に海水が逆流するといった現象も起こり、生活や農業生産に影響を及ぼし始めました。工業用水や生活用水が大量に汲〔く〕み上げられたことが原因となって、地下水位の低下や地盤沈下が発生していたと考えられます。昭和63年に発行された『あいらぶ潮江』という冊子には、大正期に小田村潮江に来住したお年寄りの、井戸水が塩辛くておいしくなかったという回想談が紹介されています。また同村西長洲、金楽寺付近の田では、大正5、6年頃から潮水が浸出し、年々不作になるところが出てきたと言います。大正末期にはさらに事態が進行し、神崎川の塩水化が発生するに至ります。
 都市の過密化や、衛生設備の不備を原因とする、住民の衛生状態の悪化も深刻な問題でした。明治初年以来、尼崎町ではコレラが周期的に発生し、100人以上の患者が確認される年もありました。日露戦争以後、コレラによって一度に大量の死者が出るケースは減りますが、大正期に入ると伝染病の発生が慢性化して患者・死者数が増加し、赤痢〔せきり〕や腸チフスが流行するという新たな傾向が見られるようになります。尼崎町では大正4年に腸チフス患者108人(うち死者11人)が記録されており、また小田村では大正9年に腸チフス116人、11年には赤痢108人といった患者数が記録されています。
 尼崎町は、伝染病対策として早くも明治15年に避病舎〔ひびょうしゃ〕を大洲〔おおす〕村に設置しており、23年には旧城郭〔じょうかく〕内西三の丸(現北城内)に移転させて尼崎避病院〔ひびょういん〕と改称。大正5年の市制施行にともない、市立尼崎伝染病院としていました。また小田村も、大正期に浜字山ノ下(現常光寺1丁目)に伝染病隔離〔かくり〕病舎を設けています。
 人々は、飲用をはじめ生活用水に井戸水や河川水を利用しており、水質の悪化は伝染病流行の大きな要因となっていました。このため都市行政にとって、上水道敷設〔ふせつ〕と衛生状態の改善が重要な課題となりました。


昭和10年頃の小田村伝染病隔離病舎
(「戦前期尼崎市営繕関係写真アルバム」より)

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最初の公害反対運動

 さきに紹介した河川水質汚染の例に見られるように、工業化・都市化の進展にともない、工場が周辺の生産活動や住民生活に深刻な影響を及ぼす公害問題が、徐々に各所で発生するようになっていきました。こういった被害に対して、住民たちはしばしば抗議行動を起こしています。ここでは地域住民が結束して行動した事例として、築地町のカマル製煉所の問題を紹介します。
 明治39年に築地町に設立された合資会社尼崎産銅所は、銅精錬の過程で有毒ガスを排出し、付近の住民に被害が生じますが間もなく倒産。問題はいったん解消しました。しかしながら、明治43年1月、産銅所施設はカマル製煉所として再興され、築地町や周辺の住民はふたたび有毒ガスに悩まされることになります。築地町・別所町・旧城郭内の衛生組合代表者ら42人は、同年3月1日付けの請願書を町長あてに提出し、製煉所の排出ガス被害を訴え同所の移転を要求。さらに、第一・第二尋常小学校校長が6月27日付けで児童の被害状況を報告しているほか、7月には町が委嘱する町医からも排出ガスの有毒性を指摘する意見書が提出されました。こういった住民らの声を受けて、町は県知事に対して製煉所の営業許可取消を7月に具申〔ぐしん〕。県は取消要求には応じませんでしたが、結局製煉所が町に対して大正元年11月28日付けで誓約書を提出し、翌2年6月に西成郡稗島〔ひえじま〕村へ移転する予定であり、移転できない場合も同月限りで休業する旨を伝えました。大正15年刊行の『尼崎市都市計画資料』には大正元年を最後にカマル製煉所の記録が消えていることから、誓約書の内容は予定通りに実施されたのではないかと考えられます。こうして築地町と周辺の有毒ガス問題は、ひとまず解決に至りました。
 製煉所転出要求運動の中心は、衛生組合の代表を務める地元有力者たちでした。町宛の請願書は、健康被害への抗議とともに、有毒ガス被害の風評による来住者減少が貸家持ち主の不利益につながり、ひいては尼崎町全体の発展を阻害すると指摘しています。流入人口が増大するなか、来住者=借家人の増加を地域の繁栄につなげたい有力者層にとって、有毒ガス問題は地域経済の阻害要因であり、その点からも問題を解決する必要があると認識されていました。
 このように、尼崎が近代的工業都市に生まれ変わる過程で、さまざまな都市問題が発生しました。住民たちは居住環境の変化や、歴史的景観の喪失〔そうしつ〕を体験し、生産や暮らしに直接影響する地域社会の変貌〔へんぼう〕と向き合いながら、日々を送っていくことになりました。

〔参考文献〕
小野寺逸也「尼崎における公害問題の展開過程(一)」(『兵庫史学』45、昭和41年12月)

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尼崎城濠の埋め立てと天平さん


天野平八(『尼崎市現勢史』より)

 明治から大正期にかけて、旧尼崎城下の過密化が進むなか、尼崎町は役場や小学校の敷地を拡張するために、当時官有地(国有地)であった旧尼崎城の濠〔ほり〕を買収し、埋め立て利用する計画を町会に提出します。
 これに対して明治45年1月15日、町会審議の場でただひとり反対意見を述べたのが天野〔あまの〕平八議員でした。「本件ノ土地ハ旧尼崎城ニシテ、本庁ニ於ケル一ツノ旧跡トモ見ルヘキモノニシテ、之ノ旧跡ヲ今日ニ於テナクスルハ、在来住民ノ忍ヒサル処ナリ」という発言が、議事録に記録されています。
 天野家は、江戸時代に中在家〔なかざいけ〕町の魚問屋である天野源次郎家から分家したと伝えられ、「天平〔てんぺい〕さん」の愛称で知られました。その当主として江戸時代以来の城下町をよく知る平八は、都市化しつつある尼崎町に歴史的景観を残すことを訴えますが、反対むなしく濠は埋め立てられることになります。この発言には、平八が抱く地域への愛着が表現されていると言えるでしょう。
 こういった平八の思いは、後に市会野党議員として活躍する息子の平一・平吾兄弟に引き継がれていきました。


「尼崎市内及附近実測図」(大正9年)より
 発足したばかりの尼崎市の中心部にして官庁街である旧城郭内において、すでに濠の埋め立てがすすんでいる様子がうかがわれます。


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